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執筆者の写真Gaku Sakura

熊本妄想日記。

熊本ストリート

今の東区。東バイパス。昔はヤンキーの生息地。暴走族。今聞くと違和感ばかりの言葉達。僕の実家はそこにある。バイクとパトカーの音が深夜に聞こえるそんな街。

2つ上の野球部の先輩達はそんな場所で悪さして、僕らは大分可愛がられてた。2段シートのCBX。高校時代の僕の新車のノーマルエイプ。それは温泉用。ショッピングモールに行く用。そして建築鑑賞用。そんなとこ。女の子にモテるためではなかったし目立つためでもなかった。

先輩たちがお家に来て”こうき、バット家にあるやつ全部貸してくれる?おばちゃん、いい?”って言われたのを覚えてる。その中には今はもう亡くなってしまった先輩もいたりして。母の影響も大きかったのだろう。何かあると僕の実家に来るという謎のシステム。この謎のシステムこそ僕は建築だと思っている部分がある。もう何年か前だったか忘れちゃったけど親友の弟まで何をどう思ったのか家に自転車を預けに来るなぞの行動に笑った記憶がある。家出でもした時だったかな。

高校生からタバコと酒を始め、家の壁は穴だらけ。休みの日はみんなで屯して、悪さの話ばかりしていた。

そしてゲーリー、リベスキンド、アイゼンマンに憧れた。UNスタジオだったりがまだ若手の時。フューチャーシステムズなんかがまだ紙面を賑わせていた時。服はステューシー、靴はナイキのSBモデル。パクられた苦い記憶もまだ残ってる。僕が福岡に生まれれば間違いなくシュプリームを愛しただろう笑

みんながラージを着始めた時、僕の方がクールだなってどこかで思ってた。サーフィンもスケボーもしないけど。その文化を愛するこころが僕にはあるって、そんな気持ち。僕のストリートの対象はいつでも建築だった。


KAWS、バンクシー、シェパードフェアリー、、、シュプリーム

彼らはストリートから有名になる方法を知っていた。スプレー、ステッカー、ポスターやり方は違うけど街を上書きしていった。そんな文化的感覚はどうも熊本までは届かないらしい。全てはTVから。流派-R、少年チャンプルー、ユーガットサーブド。

僕のストリートは二時的、三時的編集を経て届く。生の文化ではない。どこか削られて、付け加えられて届く。純粋さはなくなってしまって、真似をすることは野暮だと思われ、ボシタ祭りと血の気が多い祭りこそ若い時の憧れであったりする。

ここはいつでもジメッと薄暗い。ストリート的文化交流、それはやはり僕の場合は建築だった。


熊本北警察署、県営保田窪第一団地、熊本市営新地団地ABCD、熊本市営託麻団地、県営帯山A団地、再春館レディース・レジデンス、県立美術館分館、熊本北警察署坪井交番、草千里公衆トイレ、清和文楽邑道の駅公衆トイレ、合志市保健福祉センターふれあい館、美里町林業総合センター、高校生の時には結構触れたんだ。熊本の建築に。

でもやっぱりジメッと暗い印象の建築たちに気持ちが落ち込んでいくのがわかった。


表現

壁床天井で構成するモダン、ポストモダンの建築に別れを告げたのはいつだろうか。デコンの建築家たちが現れて僕の心は熊本にいながらロスにいた。ロンドンにいた。建築は芸術と寄り添おうと表現に努めていたし、何よりかっこよかった。

それでも建築家は四角い空間に四苦八苦している。それは残念ながら今も続いている。そして画家も彫刻家も同じことが言える。四角い平面、立体、空間と向き合う羽目になる。人が作り出した究極の形だと言わんばかりにそれが重荷になる。それを脱構築するデコン建築であったはずなのに、それを実現させたのは地震だったというのだから皮肉なもんである。


この時くらいからだろうか。四角い平面としてのキャンバスは立体であり空間であると、そう見え始めたのは。空間が立体になり平面となるスーパーフラットな場に見え始めた。今ではそれが全てリバーシブルに見える。これは間違いなく地震が原因である。

建築の内側は外側で外側は内側になる。ストリートと美術館は仲がいいようだし、人のつくった四角いモノは反転装置になっているようで、キャンバス、テレビ、スマホ、広告ポスター、漫画にPV、外の風景と内側の歴史が反転するようで見えるものはどれも新鮮に思えてくるから不思議である。少し形態が変わっただけで劇的変化のリバーシブルアーキテクチャ。こちらもあちらも内側で外側なのだから生を感じられないこともある。それはまさしく幼少期に熊本で経験したストリートの"それ"である。


建築は”どう作るか?”というフェーズから”どう使うか?”というフェーズに移ってくる。まさしくストリートアーティストたちが実行してきたように。今目の前にあるモノを上書きする行為。それこそリバーシブルアーキテクチャ、熊本で学んだ私の表現。中心にいない人間が自らが中心だと勘違いするための舞台装置。もしくはその逆も可能。だから使い勝手がいい。素人はアイドルのように偽れるし、シティーボーイは田舎者になれる。場というものの立場は必然的に弱くなる。田舎者の素人がyoutuberになり、シティーボーイのアイドルはこれまたyoutuberになる。スーパーフラットに見せかけたリバーシブル。着せ替え可能なアーキテクチャ。スーパーフラットより幅がでる。


リバーシブルアーキテクチャ。

ファッションはその人の本当の姿、つまり裸になる。そして裸の方が着飾った偽りの自分になる。その偽りを拒絶するためのタトゥー。

美術館もストリートと大して変わらない。街中にマーキングしていく広告ポスター。犬のマーキングと変わらないし、グラフィティと変わらない。違っているのはお金を支払うこと、許可を得ることなので本質的に違いはない。ハイとローの違いと言ってたものがお金や了承によるものであるのだから文化とは皮肉なもの。そしてこのお金も四角い構造をしている。つまりリバーシブルアーキテクチャの反転装置として機能している。物事は単純に裏返る。ひっくり返る。絵画をひっくり返すとそこにはサインがある。制作した日付がある。実はそちらの方が価値があったりもする。匿名であるふりをするのが絵画は上手。だからストリートアーティストたちはもっと正直。グラフィティをひっくり返すとそこには私たちの生活があるのだから。

そんな生活を建築するためにいろんな舞台装置が必要なのだから僕の建築は結構大変。

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