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音楽。

執筆者の写真: Gaku SakuraGaku Sakura

音楽も昔は形があったのにな、なんてことを考えています。私が高校生の時はアルバムを買ったり、レンタルしてきてそれをMDに録音するというのが当たり前だったように思います。それからすぐiPodがでて音楽はダウンロードするものになりました。今では無料で音楽を聞き楽しむことができています。そこになにかしらの形はありません。

レコード、カセット、CD、MD、MP3形は次第になくなってきました。最先端の場所では芸術も、デザインも、建築も形が無くなる可能性があります。

どこにでも持ち運び、好きな時に利用する、そんな未来がやってくるのだと思います。


ONE OK ROCKの新曲のようです。楽しみです。

音楽は副音声的に聴くものだと思っていました。建築家としてはそれが普通なのかなと思いますが、空間の中の一部として風景や香りや肌触りと共にある"音"という認識をしていました。ある空間を体験するとふと思い出す香りや音(音楽)がある、そんな関係性を築いていました。

ただ、最近は自分のなかでちょっとだけ変化が起こっています。少しコンサートに行ってみたい、なんてことを思うようになりました。今までの自分では考えられなかったことです。これまで私は音楽の魅力を半減させていたのかもしれません。

今、行ってみたいのはONE OK ROCK、AI、RADWIMPSのコンサートです。あとはブルーノマーズ、レディーガガ、Siaあたりです。

大きな変化の理由を分析すると、そこにいる"人"に興味がでてきたということでしょうか。つまり、本質的な音楽というモノに付属しているもの、その周辺に興味が湧いているということです。声や音に付属している人、それがアーティストです。そのアーティストにはファンがいてスタッフがいて……そのアーティストの背景が気になり始めたということです。歌や声の好き嫌い、歌詞の善し悪しだけでは量ることのできない部分です。

全体を通して今私が感じているのは私自身、建築という固定観念としての”場”であり"空間"にかなり依存していたのかもしれないということです。つまり、良い音楽を聴くためには、私なりの最前の"場所"があるということを決めてかかっていたということです。それは映画でも食事でも芸術でも全て同じ事が言えます。

映画にはポテトチップスとコーラとソファがないと駄目だ、後ポテトチップスをボリボリ咀嚼音を気にしなく食べられる場所でなきゃいけない、と言った具合です。

が、仮想通貨なり、音楽なり、映画なり、すべては場を必要とはしなくなりました。全てが一つの場所に定着することなく流動的に動きだしています。そこに変わらずあるのは私自身だけです。つまりもうあんまり周りに気を使い過ぎるのは辞めようかな、ということを言いたいのですが……

それを踏まえて言うと建築は私達自身の身体にあるべきだ、そんなことを考えるようになっています。様々なものが流動的になるなかで本質的に常にあるのは自分の身体なんだなと、だったら私の建築に気を使う必要はまったくないじゃないかと……。私の建築がこれからどのようなカタチとなって現れるのか私自身も分かりませんが、それはきっとパフォーマンスの中の一部なんだと思います。そこには脚本があるわけですが、私の建築を人に簡潔に理解してもらう必要はまったくありません。それは私が円を仮想通貨に両替をしたり、クリップボックスで音楽を楽しんでいるということと変わりません。周りにいる人にはその全貌を簡単に知られるような簡単な物語であってはいけません。クライマックスはどうなるかわかりません。建築とはそういうものだと思います。

ただ私はこれからあえて建物を作る可能性があるということは少しチラつかせておこうかなと思います。それは私の建築のために、です。


 
 

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