建築と芸術の関係性の図です。(ロザリンドクラウス)
建築を学び始めたきっかけになったものです。何かを否定することで自らの立ち位置を決定するというモダニズム的な思考で考えられたものですが、現代でも有効な手段になるものであると考えています。
そして次の段階を思考するものとして。
全関係性の図はこのように変換可能な時代になります。それは間違いなく、すぐそこにあります。ここに乗り遅れると……あとは中央からは離れた場所で作業するしかなくなってしまいます。それは魅力的な作業ではあると思いますが、その価値を設定すること自体意味が無くなってしまいます。それは求める場所ではありません。
建築家はしっかりとした価値判断がくだされた場所で活動しなければいけないと考えています。
見飽きた建築造形、それは私の飽き症が問題では決してありません。思考の発展を妨げてしまうようなスキームを建築家自体が作り出しています。もしくはその問題に対する拒絶反応です。建築、それは芸術の基になくてはならない?もしくは建築の基に芸術は成立しないといけない?そんなところで建築家は何を問題にするべきか迷っているようにさえ見えます。
しかし、それを環境のせいにすることはできません。
私のパフォーマンスは建築体験のプラットフォームです。その上で建築家は高学歴的な演出のもと、人々から距離をとり、先生と呼ばれる。それは建築のヒエラルキーの正に"それ"です。しかし、革新的?美しい?それとはほど遠い妥協のようにも見えるそれを作り出す人々の事を先生と呼ぶのは完全なる皮肉になっています。
四角い箱があります。これを建築と呼んでしまうのは簡単です。そこにはドナルドジャッドがいてカールアンドレがいます。彼らの存在を借りれば建築家のヒエラルキーは維持されます。それは非常に簡単な手段でダングラハムを引用し、ピピロッティリストを引用し、ギルバート&ジョージを引用します。限りなく引用を続けた結果、何もありませんでしたというイリュージョンは最低に面白くありません。そんなものに見える建築ならば作らない方がマシなのでは?と思っても無理はありません。だったら大工になるし、料理人になったほうが数千倍魅力的な活動になるでしょう。
手を汚さず机の上でたくさんの模型を作り、がんばっている姿として現場に何度も足を運ぶその姿は滑稽です。
なんてことを言ったら建築家は憤慨するでしょう。しかし、それと一体何がどう違うか説明できない事実があります。
匿名性を建築に応用するのなら皆Satoshi Nakamotoでいいのでしょう。匿名性を理論に設計者の名前を平然と提示するその矛盾を埋めるだけの理論がそこにあるようには見えません。
ヘルツォーク&ド・ムーロンなんかはそこが他とは違う訳です。
それだけの違いで優れていると判断できる建築という学問は誰にでも取得可能な学問であると思います。がそれを作ることはまた別です。
剣山リングは私の建築の一部として機能します。それはパフォーマンス上の建築としてです。花嫁が身につけます。建築家が身につけます。アーティストが身につけます。いや身に建築します。
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