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執筆者の写真Gaku Sakura

熊本から。


今日は墓参りやらなんやら……熊本に帰ってすぐにブログを書こうと思ったのに慣れないパソコンにイライラ。

土曜は親友たちとその彼女と食事に。ここでも時間はずっと流れているんだなと少しだけ寂しくなった。

実家もいつの間にかお婆ちゃん家の匂いがする。

これは懐かしさなのか、距離ができたせいなのか……

ただご飯とお酒は熊本が一番うまい。それは変わらない。


これも一つの建築だと思う。花があり、ろうそく(火)があり、お供えものがある……ここが私の辿り着く場?


震災の後の熊本の様子はこんな風景で、ここにも建築を感じてしまう。これも一つの痕跡であって、その痕跡は建築そのもの。

それはゴードンマッタクラークのそれと似ているのかもしれない。



時間が経つと……


こうなって。自然と建築の関係性は揺れ動いて、捉えられない。


だから建築の仕事はとても難しい。

近所の叔母様たちの中で自分たちのグループの昔の評価は……悪ガキ軍団、そんな感じだったと思う。

ここに並ぶ写真たちは私たちの遊ぶ場所だった。買物をして、スタバに行って友達と喋ってという遊びではなく……たむろして自分たちオリジナルな遊びを開発する。タバコをすって、花火をして、バーベキューをして、デートして、ケンカして、バイクに乗って、スケボーして、野球して、サッカーして、鬼ごっこして。

今ではなぜかそんな場所が懐かしく、寂しい風景に映る。

あの時自分たちが見ていた風景は今の風景と違う。

色んな経験をしてきた。

色んな学びがあった。

体も心も年を経った。

楽しみたいと思っていたあの頃、カッコつけていたいと思う今。

親に反発していたあの頃、親の気持ちが少しはわかる今。


照明は中途半端に明るく、暗い。色の問題、配置の問題、量の問題。

POPな音楽が入り混じる通路は騒音でもなく、クラブでもなく……迷子のお知らせが場を成立させる。反響することもなく通り過ぎていく悲しい音たち。

きらびやかなお店にあるものとは違う雑多に見える広告たち。

雑草のように広がる文字、文字、文字。意味はない、意味のあるイメージの枯れ果てた世界。


とても大きい文字。あなたと私。意味はない、意味あるイメージ。



アンディーウォーホルのように。でも、純粋なウォーホルにはなれない。

どこかダサい?どこか臭い?どこか悲しい?忘れ去られた?もうひとつのPOPがここにあるような……




赤いキューブと赤い数字がミニマムアートのように並べられていて、それはジャッドのようで。


ニューヨークとロサンゼルス。東京と熊本?自由さも、奔放さもない場所。納められた場。黒い軽自動車と設備機器。ここにはどうしようもできない隠されたルールがある。倉庫のような(ガレージではない)ショッピングモールは夢も華やかさもない、現実的な現状を映し出す場所。伸びやかな場ではない、行き詰まりの場。




ただただベッヒャーの写真のように。

あちこちに現代アートの手付きで彫刻を並べ、リレーショナルアートとでも言わんばかりのモノ、コトがここにある。これが建築。現代アートではない。では現代アートとはなにか?それは建築の領域なのかもしれない。

見せたくない現実が包み隠さず、ここにはあって……


"ここ"から"向こう"へは進入禁止。そりゃそうか……


どこまでも伸びるような鉄塔、電線。


取り残された貯水槽。


洪水の恐怖は黒い布として露わになって、防波堤になる。だけど心の防波堤にはならない。



自由の象徴としてのグラフィティは消された、自由には見えないスケートパーク。


この国のカルチャーに憧れて……

演じなければこの距離感を埋められそうにもない。

"ここ"はいつも”じめっと”している。

カッラとした場所にはなりそうもない。




”ここ”からはあなた達がすごく魅力的に見える。

そっちに行こうと思えば演じることしか今の自分にはないのかな。



”ここ”から抜け出そうと思って向かった東京。結局、作られたような空間があって、何がリアルなのかわからなくなった。きらびやかにすればいいわけではない。なんでもあり、それは自由ではない。洗練されたものだけを求めているのではないということがわかった。”向こう”を知らないだけなのか?

答えが出るまでとりあえずこのまま演じ続けようと思う。


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