熊本城を見てきた。早く治ればいいなと思う。
でも今の状況もそれはそれで悪くない。人の力、行動が見えることはいいことだし、その過程は建築を魅力的に見せる。和風のサグラダファミリア。
建築に正解はない。あったとしてもそれを壊して行くのが自分たちの歩む道だと思う。
震災以後、熊本の街には隙間が増えた。多くの場合、立て替えられた建物は元の建物をスケールダウンしたものになっている。そのためどうしても余分な隙間が生まれている。すると今まで感じることのなかった違和感が突如現れ、その隙間を何かで埋めなくてはならないという衝動にかられる。庭を延長する。車を2台から3台にする。という具合に。
私はこの場を建築が埋めるべきであると思う。が今はその隙間を感じなければいけない時期なのかもしれない。すぐに埋める必要はどこにもない。
前向きに生活を始める人々を熊本で見た。
環境に苦しめられながら。
妥協しながら。
後ろ髪を引かれるように。
それでも私たちには新しい家が必要で。
震災後に生まれたこの隙間を嫌うことなんかできない。
それは建築家が意図的に作り出した隙間ではない。
嘘でも偽りでもなく、わざとらしさもない。
住まう人々の苦渋の決断の痕跡としての隙間。
それを熊本の人々は徹底的に愛すべきだと思う。
みすぼらしい?そんなふうには見えなかった。
現代の建築家のようにその隙間に緑を植えないでほしい。
その隙間にベンチなんか置かないでほしい。
きっとそんな簡単な答えではないはずだから……
もちろん屋台を作ろうなんて思わないでほしい。
短命なものは必要ない。
その隙間から見えてくるものがこれからの”熊本の建築”なんだと思う。
きっとそこに住まう人々の生きる強さが建築になる。
そんな場所で私は役に立っていきたい。
文字やイメージが建築に昇華するための方法。
Comentaris