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執筆者の写真Gaku Sakura

Costume + Architecture.



Webを更新しました。新たな作品がアップされています。またそれぞれの作品に言葉を添えています。私の演じる舞台の痕跡を見て頂けたらなと思います。


Costume + Architecture.というタイトルでブログを更新しようとしていますが、うまくまとめられる自信はありません。私が”頭の中で考えていること”を羅列する、ブログはそんな場所になっています。読みづらくて申し訳ないなと思いつつ、この羅列を私は楽しんでいます。

これは建築の歴史の一部としての記録。アンビルドの建築家でありアーティストである自分と向き合うための方法、この姿勢は未来の建築という文化のためです。

これは一つのCostumeでありArchitectureです。


そのような理解で読んでいただけたらなと思います。



衣装と建築

最近私はインスタグラムでダンスの動画を上げている。そこで私が着る服は衣装であり建築である。ここでの衣装は壁、床、天井といった建物の構造に似ているものでその関係性や構築の方法はまさに建築と呼べるもの。

建築の世界には複雑な色がある。それは木の色、コンクリートの色、鉄骨の色、タイルの色、フローリングの色、硝子の色が建物にあるのと同じように。

色の選択、それは自由なようでそうではない。例えば黒。動画ないで黒を着ている私は圧倒的に多い。それは日本のモード界の黒をファストファッションで遊ぶ戯れのようなもの。

1981年、パリコレに現れた黒のファッション。身体のラインを美しくみせる当時のデザインを否定した。身体を覆い隠すようなラージサイズの黒のファッション。黒とは反抗、反逆のカラーでファッションに用いられることは当時ほとんどなかった。いつのまにか時は過ぎ、、、今ではデザイナーたちは現代を漂流するかのように黒を纏い、黒を讃える。

その流れは当然のようにファストファッションという資本の渦へと向かう。

皆が抵抗する黒が主流となればその抵抗は白になる。

カウンターカラーの白と黒。

白衣を纏うショップスタッフたち。

現代では抵抗を示す色はなくなってしまった。

すべての色を無差別に使いCostume+Architectureは脱構築の世界へと突入する。


私は踊る。それは表現であり、コミュニケーションとしてのCostume。それは舞台の一部となる。

それぞれの歴史、その意味を脱臼させていくように黒を纏う。そのサイズはラージサイズ。私の踊るストリートではラージサイズを着るのが主流だったりする。それはラッパーたちの出生に関わる歴史。HipHopという文化の歴史とDanceにはラージサイズのCostumeが必要。自分をアピールするために、自分を大きく見せるために。

時にCostumeの前と後ろを反対に着たりして。

ディッキーズのパンツにエアフォース1、もしくはティンバーのブーツを装着する。

これはHipHop界の正装とでもいうべきか。

HipHopが音楽チャートのトップを賑わせている。それはCostume+Architectureの脱構築と連動する。HipHopがアングラではなくなりアイドルがRapする時代。アイドルが踊るDanceはまさにHipHop。

建築とは現象の理由となってその文化背景を説明することに使われる。そういった意味では建築も衣装を纏う必要が今後は出てくるのだろう。。。

脱構築の世界で生まれる建築は今後より流動的なものとなり、人はそれを纏うようになる。

そんな思いが込められたダンス。


皆さんにこの気持ちは届くのか?


建物と衣装。

建物や衣装を纏うことは一つの表現になる。それは真実である。纏うものを選ぶ理由が存在していて、表現を語れば選択の"なんとなく"が許されない世界になる。きっと建築家の先生は生徒たちにこう質問する。"なぜここはコンクリートなのですか、なぜここは黒いのですか、なぜこの部屋はこの大きさなのですか"。そう、学生たちは質問攻めに合う。建築にとっての表現とはこの質問攻めに立ち向かうことであったりする。このなぜに対する返答を社会は求めてくる。


建物はもっとも大きな人間の衣装であるということが言える。

そして衣装はもっとも小さな人間の建物であるということもできる。

その間にはカーテンがあったり、家具があったりする。つまりカーテンが私たちの衣装になることもあるし、家具を纏うことだって十分あり得る。それが私たちの生きる脱構築の時代。新たな建築の姿。


建築とは纏うこと。時には理論武装しなくてはいけないこともある。そうやって価値を保持する方法を探るのである。それは芸術にも同じことが言える。私たちの表現とは所謂過去を学び、そこから未来に問いを投げかけるようなもの。過去をトレースすることは許されないし、かといって突拍子もない提案は破り捨てられる。だからと言って普通の提案をしていては人の目にも止まらない。残酷な世界。

アメリカでは建築には理論が必要らしい。日本やヨーロッパでは基本的に師弟制度が必要になる。誰のもとで建築を学んだのかが重要であったりする。つまり文字や言葉の代わりに人を用いて建築を構築する。すると弟子は大概の場合師匠のスタイルを受け継ぐ。スタイルを受け継ぐ故に日本の建築の発展は著しく遅い。

今、日本の建築雑誌には誰が作ったのか定かではない建物が多く掲載されている。

個の欠落がある。それをも匿名性アノニマスだと語るので意外と根深い問題でもある。


Costume + Architecture.

私の建築は建物を作るビルドの建築とは大きく異なる。私の建築はアンビルド。建物を設計することはない。私が建築するのは一つの舞台。

台本があり、舞台セットがあり、小道具がある。もちろんその舞台で演じるのは私たち。そこには総合芸術と呼ばれる混交された芸術のあり方が見えるだろうし、そんな総合芸術こそが私が学んできた建築という学問。


ではなぜその舞台の中で私は建物を設計しようとはしないのだろうか。


先ほど述べたように日本の建物には技術はあるが芸術はない。そしてスタイルはあるが表現がない。そして日本の建物は短命である。歴史に残るものは数少ない。建物を建築する理由が見つけられないほどに似た建物が建ち並ぶ。空間はどれも同じようなもの。ならばその空間の扱い方を新たに建築するほうが賢い。多くの建築に携われる機会が得られるだろうし、人の生きるに関わる建築は何より魅力的である。

その建築のために私は台本を書くし、ジュエリーを作る。自らダンスすることもあるし、絵を描くこともある。

そこは技術のうまい下手は関係のない世界。建築への新しいアイディア、コンセプトが重要になる。

私の建築は自分自身を纏い演じる建築なのである。



END




新たな制作

新たな指輪を制作しました。

あなたがあなたらしく演じるための指輪です。理想の自分を演じてみてください。等身大の自分を演じてみてください。ダメな自分を演じてみてください。そこに広がる空間に建築はどう作用していますか。

周囲の人はあなたと同じではありません。あなたの舞台、そしてそこに登場する人物は魅力的でなければなりません。だから演じることを恐れないでください。魅力的な人とのつながりを永遠のものにしてください。

そこに一つの歴史が動き始めます。一つの建築が構築されます。


未来の観客は歓声を上げることになるでしょう。一分一秒その瞬間に息をのむことになるでしょう。そしてあなたに拍手を送ることになるでしょう。

私たちの生きるはそんなかけがえのない人生です。


生きると芸術を纏うそんな人生にしてください。


そんなCostume + Architecture.2024には個展を計画しております。

時間をかけながら着実に一歩ずつ前進していきたいと考えております。



新たな建築の可能性を探って。それではまた。






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