top of page
執筆者の写真Gaku Sakura

Emerging Trajectories。現代建築作家


藤村龍至さんがアメリカ人若手建築家のレクチャー「Emerging Trajectories」についてFacebookで書かれていて、その内容が面白いようで…違和感のようで…

自分が今感じているものが異なる言葉で出てくるこの魅力を書かずにはいられないなと、そんな気持ちでいます。

実際、私はこのレクチャーを聞き逃してしまったので彼らが何を語ったのかはわかりませんが……

本当に日本の建築は非常につまらないものになりました。日本建築は社会との繋がりを重視する?ソーシャルに?なっているように見えます。しかし昔も今もそうですが本当にソーシャルな重要な役割をその建物もしくは建築家が担えたことがあったでしょうか。そんなことが建築家という職業で果たして本当に可能なのでしょうか。建築家は信じられますがそこからなる建物にはそれらを本来託すべきではないような気がしています。

今の日本の建築家の仕事は3.11を言い訳にしているようで、むしろ取り組むべき行動をしているのは「アメリカ人若手建築家」のように見えます。

3.11がありました。繋がり=建物っていうCMとしての日本建築家の仕事です。しかしこれは本来建築家の仕事ではないはずです。この場を作り出すは建築家ではなく彼らであり、それをサポートした人々であったはずです。建物の内容なんて大したことなかったです。大きさとか機能とか、壁も床も天井も建築家が考えているほど機能はしていなかったはずです。適した内容を適した場所にしょうがなく落とし込んだのです。それは建築家の功績ではなかった。

もし建物の内容で本当の繋がりを作り出せると考えているならそれはホラー映画のようです。どんな建築士が作ったものだとしても、彼らは必要な時に必要な繋がりを作り出すことができます。建築家が操作することは不可能です。熊本でもそうだったように。

スーパーフラットは日本への理解です。それはもはや場です。行為の元になる場です。忘れるは非です。日本の建築が日本の歴史を流すは非です。

建築家は住宅を機械にしてしまいましたが人までをも機械にしようとしてはいけません。住宅を機械にしてしまったので故障することもあります。それが建築家が選んだ究極の選択であったはずです。故障したら保証しなくてはいけません。そしてこのことから建築を建物だと勘違いするは非です。

建築は機械ではありません。

「アメリカ人若手建築家」の建築は未実現ではありません。彼らの建築はすでに実現しています。それはなんのために?未来のためです。

アーキグラムもスーパースタジオも実現です。

彼らは今を作りました。私達は未来の今を作る必要があります。それが建築の必要性です。

すべては建築ですが今の時代、説明をしなくてはいけません。それは機能とは断ち切った説明である必要があります。機能は今の時代機械になってしまったので建築には機能とは断ち切った内容が求められます。

SANNAはダングラハムではあっても村上隆にはなりえません。建築界にあってのスーパーフラットは未だ前人未到の地のようです。きっとキャンバスのような枠が必要です。円環かもしれません。それはハイパーかもしれません。意味がないかもしれません。それは一つのスタンス、パフォーマンスかもしれません。しかし、必要です。

縦のフラット×横のフラット=ハイパーフラットなWhite cube。決して美術館のことではなくです。すでにフラットではない真実を隠蔽します。それは偽りか。救いか。希望か。絶望か。見えないものを見ようとするのだからアン建物なのです。それが好都合なのです。それは建物でなくても建築ではあります。意味が建ち上がればスーパーでハイパーなフラットな場所から建ち上がるなにかがあるのでしょうか。

”建物は未完のまま完成を迎え死に至る。”です。

だから

”建築は未完のまま完成を迎え、死を偽る。”必要があります。


閲覧数:6回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Comments


ロゴ-1.png
bottom of page