こんなにも似てる音楽が生まれる世の中。
似てるけど違うという違和感に少し怖いなと思って音楽を聞いています。
そんな音楽の若干の違いは何を意味するのでしょうか。
そしてその類似は何を意味するのでしょうか。
それにしても現代のどの分野にもこのような問題があります。
これからの未来をどう作っていくのか、楽しみではありますが心配でもあります。
匿名性やアノニマスという言葉がこれを一つの質にしてしまうのでしょうか。その言葉が何かしらの居場所を与えてくれる役割を成してくれるのでしょうか。
個性を打ち消そうとするものづくり。それはテロへの恐怖のように自分を主張することを拒んでいるようです。なぜ彼らは誰かのコピーであると評されながらもモノづくりを続けるのでしょうか。
個性を作り出す方法を拒否しているように見える人々。それはその背景に必ず暗い建築があるからだと思います。
"FUCK CONTEXT " 建築の背景は暗い、明るいことなどほとんどありません。希望とはほど遠い、現実という接触を私達は建築に強いられています。
中指を立てながら建築を蹴飛ばし揺さぶりをかけてみることは悪なのでしょうか。ちょっと考える必要があるようです。
建築が不安定になれば、その中での私達の生活はどう見えるようになるのでしょうか?
芸術は?デザインは?食は?衣は?住む場所は?必要なものとそうでないもの、それらが鮮明になるでしょうか?もしくはより見えづらくなるのでしょうか?善し悪しという基準線が生まれることはあるのでしょうか?
建築の終焉。「芸術の終焉のあと: 現代芸術と歴史の境界」。果たしてそこに建築の未来へのヒントはあるのでしょうか。
フィクション建築の中で生きることは可能でしょうか。果たしてフィクション建築は現実に有効な建築実践になるのでしょうか?ノンフィクション建築が見せる現実はフィクション映画のように乱暴に見えます。
ネット上で話題となっていた「ブラックボックス展」。これは展覧会として成功だと言えるのでしょう。長蛇の列ができ、作家は入場者から毎回1000円の入場料をゲットしてコストパフォーマンスや話題性という点に置いても優れていたのでしょう。そしてこの展覧会がテロや犯罪と変わる事のない乱暴な現実を展示してみせた、のでしょう。ジョンケージの4分33秒のような展示。コンテクストから見ると日本的、もしくは禅的とでもいうのでしょうか?Frank Stellaのblack paintingを空間いっぱいに引き延ばしたのでしょうか。ある指示書を見せて。ネット上の批判も展示の一つにしながら。
今回は自分が思い描いている建築の反対側を見せられました。それは非常に暗い現実としての建物でした。これが最期の建物の姿なのでしょうか。ここからは次の展示に繋がる未来を見ることができません。
この後は空間と時間を広げていくことしか想像できません。それとも断絶を繰り返すのか。それは作風とは違った次元で、アノニマスの集大成のようで。
一つのポーズとしての今回の展示なのだとしたら次のポーズがクライマックスなのかなと思います。
現実の建築(建物)は本当に暗い気持ちになります。
だから私は仲間と共に演じるこの舞台の上で建築に触れます。
PHARMAKOn。
GAKU SAKURA
”建物は未完のまま完成を迎え死に至る。そして建築は未完のまま完成を迎え、死を偽る。”です。
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