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執筆者の写真Gaku Sakura

ZAHA HADID DESIGN.建築術家 Ko Iwakawa.


ザハがデザインのサイトを建築とは別に作っているらしいです。

http://architecturephoto.net/からの情報ですが……

こうなってくると少々不安になってくるのが建築の未来です。

建築家がデザイナーになる時代。これまでは建築家の作る○○という立ち位置での作品発表であったように思います。デザイン的に優れていなくても、建築家が作ったという付加価値がありました。

しかし、今回のザハのアクションは"建築家の作品"としてではなく、"デザイナーとしての作品"という立ち位置を作り始めたと理解していいのではないでしょうか。レムコールハースもOMAとAMOとで仕事を使い分けますが、そういった立ち回りが今後はより必要になってくるのかもしれません。

それはきっと建築という場所が今まで異常に不安定な場所になり、その力も十分に社会のなかで機能しなくなってきているということだと思います。

現在、日本の学生の作品を見ても芸術やデザインに本気で足を突っ込めない人のたまり場としての建築領域という具合に機能しているように思います。それゆえテーマが目に見えないものに偏りがちになる。光だとか、フレキシブルだとか、リキッドだとか、社会なんかという言葉を添えて……芯が見えづらくなっているような気がします。足下が見えていないような気がします。建物を考えることはいいですが、その上のものにも下のものにももっと目を向けるべきだと思います。

私が考えているのは建築という場所の立ち位置についてです。洞窟に絵を描く行為は芸術でしょうか?それとも建築でしょうか?

絵を描く行為はただの表現ではありません。自分たちの居場所や縄張りとしての場を示すための行為で、それは建築の元初だったのかもしません。

器を作ることはデザインでしょうか?器を作ることは食の場を示すということです。歌を歌い踊る事も、衣装を纏うこともすべては建築という場をその場に定着させるための方法であるはずです。建築は場の記録として機能しなければなりません。

建築とは構造体を作り出す職業ではないはずです。仮の場を示し、固定し、安定させるための手段であると思います。それはいつまでたっても”仮”の場所でなければなりません。強度のない方法でもその効果は”絶対”です。その"絶対”は”仮”の場所でこそ生きます。”仮”であり続け、変化に適用させる幅を与えてあげなくてはなりません。それは物理的な空間の大きさとは無関係です。記憶と記録との関係です。

芸術やデザインの足場には必ず建築があります。建築という場があっての芸術であり、デザインです。そして芸術という建築があり、デザインという建築があるということでもあります。そこに境界線や分断はありません。というよりすべてが建築に繋がっています。芸術もデザインもそれぞれがそれぞれに特化するために作り出された近代からの贈り物です。建築も建築を特化させえようと建物へと視線を向けてしまいましたが、足下は変わりません。

建築の仕事とは一体なんなのでしょうか。芸術家やデザイナーは建築家なのでしょうか?彼らは建築術を用い、その上に作品を作ります。となるとザハやレムがどれだけのクオリティーで社会に立ち向かおうとしているのか、その姿勢が感じとられるのではないでしょうか。私達の仕事の方法は今までのものとはまったく異なるものになるはずです。何かに特化させるという方法も先が見えてくると足もとが不安になります。


建築に携わる者、己の歴史に立ち向かえ。

 GAKU SAKURA


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