かってに卒制展。2020年に展評を書きました。
そしてMitsuki Nakamuraさん 東京暗渠再生へ最優秀賞としてトロフィーを送りました。
これはもちろん卒制としての作品もそうだったのですがこの"かってに卒制展"という場を建築したことへの最大の賛辞でもありました。
SNSに一つの場を建築する。
彼女の作品一つではこの場は建築にはならなかったはずです。同じ世代の仲間たちの作品を集結させ一つの建築にしました。いいねとコメントとリツイートの効果はまさしく卒制展に必要な環境だったと思います。こうして出来上がった新たな場、そこに日本の新しい建築の姿がありました。私たちの建築とはありとあらゆる環境を可能な限り利用しなくてはなりません。
与えられた環境に自らの建築を適応させる。それは”過去の建築”のあり方なのだと思います。”新たな建築は持続可能な発展を得るための環境を自ら探し求めなければなりません”
現状建築のシナリオはかなり古典的と言えそうです。地震に戦争、建築のscrap and build。その繰り返しの中、モダニズム、ポストモダニズムと私たちの歴史は発展してきました。それは大枠で捉えて造形の可能性を追求するものでした。
現在の建築の幅は大きく捉えて水平、垂直に構成されたモダニズムの建築〜流線型の構造を持つデコンの建築。その間に全ての建物があります。
その繰り返しの歴史に終止符を打ち新たな時代を作ることは可能でしょうか。またそれとは全く異なる別の場所に建築を発見することは可能でしょうか。これからの建築とは一体どんなものになっていくのでしょうか。
建物の造形は建築家の生命線だと言えます。私たちは建築家としての道を形で表現しなくてはいけません。もしくは香りで味で肌触りで音で表現しなくてはいけなせん。そこからは逃れられないです。それはコンセプチャルな建物であっても同じことです。今、日本の建築を造形から理解しようとした場合そこに新たな発見はあるでしょうか。このままではモダニズムとポストモダニズムの枠を超えられることはできそうにありません。今の日本の建築は”それでよし”というような雰囲気さえ感じられます。
このような状況の中でコロナが流行しました。それは建築にも影響を与えたようでそこから生まれた奇形の建築がこの”かってに卒制展”だったのだと私は思います。
ここで生まれた新たな建築に対し新たな世代の建築家たちがどのように応答していくことができるのか。日本の建築の発展がここにかかっているのかもしれないと真剣に考えています。
かってに卒制展 2022全体を見て
全体としての印象で不思議に思ったのが皆さんがこのコロナ禍という状況に対して、それに答える形での応答があまり見られないことです。建築で学ぶ"環境の適応"に皆さんたちが提案する巨大な建物は果たして本当に必要でしょうか。
実際コロナがどれほどの病なのかよくわかりません。インフルエンザのようなものなのかもしれません。もう少し深刻な病なのかもしれません。このような未確定な状況の中での完全無視は少し見逃せないです。みなさんが建築を学んだ4年間。卒制をしている期間、先生方から直接エスキスを受ける時間はどれほどありましたか。学び建築を探訪し旅行に行く時間はどれほどありましたか。皆さんは卒業旅行にどこに行かれましたか。コロナの影響が全くなかったと皆さんはお考えでしょうか。
私たちの建築は私たちの生きる歴史でもあります。流行があり文化があります。そこには見逃すことのできない人とのつながりがあります。それは確かなことです。そのなかで皆さんの建築は歴史に引っ張られ過ぎている印象です。大学の先輩たちが作り上げてきた卒制という歴史、作品に影響を受け過ぎています。それは少し真面目すぎるというか、不器用すぎるなとそんなことを思ったりしました。
もう少し自分たちの建築を新たに作り上げていくようなそんな若い力がもう少し見たかったというのが本音であったりします。
気になった作品
『菌床のマチ』
『菌』をマチで育てるというアイロニカルな作品かと思いましたがそうではなく味覚という感覚をもとにコミュニティを復活していくという内容でありました。この作品の質をどこで判断するべきかという点において建築の難しさが潜んでいるなとそう思いました。つまり建物としての建築がこの場にどれだけ重要な要素になっているのか計り知り得ないのです。建物に今までにないような新たな提案はありません。
それに比べて彼の提案する食の文化のコミュニティ構築はより建築らしく映ります。彼のやりたい建築と建物がどうも分離しているように感じられてしまいます。ならばより建築らしくお酒や味噌を建築(つくる)した方がより確信に近づける気がします。
しかしこのようなコミュニティの場を町に取り戻したいという純粋な思いに魅力を感じてしまうのも事実です。建築にできる範囲を潔く決定し、コンテンツの提案をすることに変換することで建物の強度を得ようとしています。ならば建築家としてこの建物の看板、もしくは提灯を既存のものを使うのではなく新たにデザインしてみるのもいいかもしれません。そうすることで提案する建物の見え方も大きく変わるのではないでしょうか。
環境を建築していくのならばこの提案はまだ進化の余地があるなと思いました。
舟流都市-外濠から考える水と都市の向き合い方-
この作品にも『菌床のマチ』と同様のことが言えると思います。そもそも都市景観を作品と見立てた博物館をつくることで都市景観を大きく変えてしまう可能性があります。ここに重要な建築は博物館のデザインではなく船のデザインなのではないでしょうか。そして船が停泊する場所です。最近ではザハが船をデザインしていたり、妹島和世が特急車両Laviewをデザインしました。博物館としてのデザインはより小さいもの、可能であれば博物館としての機能はスマホの中に納めたいなとそんなことを思いました。そんなの建築ではない、そんな思いが皆さんの中にはあるのかもしれません。では考え方を変えて水の上を移動する建物をデザインしてみてください。既存の船の上で構いません。もしくは船に引っ張られる構造でもよいかもしれません。するとこの案は飛躍する可能性があるなと思います。博物館自体のデザインも美しいと思うので私だったらこの構造をそのまま船に定着させてしまうかもしれません。と少し提案させていただきます。
盲と東京
まず率直に視覚的な情報に囚われない東京の捉え方を模索する必要があるにもかかわらずプレゼンがかなり視覚に偏っている印象を受けます。プレボにこれだけの情報量、伝えたいことがあるということにまず魅力を感じました。故に残念に思えたプレゼンです。音を使ってプレゼンすること。香りを使ってプレゼンすること。質感を使ってプレゼンすることができたはずです。そしてそのような素材を使う建築の提案ができたはずです。
例えば白杖。これは視覚障害のある方が使う杖ですがそこから得る情報量は多いです。自らの存在を示し、音をならし、安全を確保します。それは都市の形を音にしていく行為でもあります。そしてその音を身体の刺激(痛み、衝撃)を通して知ること、それは建築であると言えます。
フランシスアリスという作家がいます。動画を添付するのでぜひ観ていただきたいです。
きっと捉えたいと思える都市のカタチがあるはずです。
フランシスアリスは建築を学んだアーティストです。きっとあなたの役に立つはずです。
母の家、父の家、わたしの家
ここには集団から隔離していく断続的な家族の存在が見受けられます。それは新しいカタチの家族のあり方を提案するものだと理解しました。文章全てを読むことができないのでプレボの印象でお話するしかなくなってしまうのですが彼女の提案と既存の建築との差が見えてこないのはやはり日本建築における問題そのものだと思います。西沢立衛の部屋を分散させた森山邸という作品は皆さんご存知だと思います。それは家の機能を分散させることで作る建築(生活)の可能性を示した、と言えます。その提案に対して母の家、父の家、わたしの家は家族そのものを分散させようとしています。そこにつながる建築の可能性を提示する必要があるはずです。つまりそのような造形の可能性を示す必要があります。そうでなければ既存のマンションの一室をそれぞれに割り振っても問題はないはずです。そして究極をいうと結局自分の家に防音で少し自由なスペースと個々の部屋がある普通の家でよくなってしまいます。プレボの文字を読めればよかったのですが読めないなりに作品を見るとこういうことになってしまうのかなと思います。絵を見ると家族それぞれの思考とプロセスが建物に反映されるような提案なのかなと思うので既存の家でそれを構築すると面白いかなと思いました。例えばそれぞれの希望全てが安価なダンボールという素材だけで解決できるとしたら、、、私の家はこのような建築の姿になる。というようなものであったり、、、です。
⼩⻨産業を6次産業化する前例のない建築設計。
久川さんの提案する建築。
この二つの建築はまとめるうまさが光っていたように思います。造形としても表現としてものです。しかしどこか違和感を覚えるのも確かです。それはどこかの歴史上の建築家の作品を想像させてしまうような模型のせいかもしれません。そして建物を一つのシンボルとして人を集約しようとする点でやはり違和感を覚えるのです。集約することで生まれる合理性が獲得できたとしてそれが新築されることの必要性はどこにありますか。
またその計算では得ることのできない感覚の問題を建築にしようとしたとき起こる問題が個々人のものである限りこの建築のサイズ感を見直す必要があるように思います。生きる上での生死と記憶と記録の問題。それが純粋なカタチを飛び出して複雑になった瞬間にどこか本質を遠ざけてしまう印象があります。つまりこの建築はお金のためのものなのか、社会のためのものなのか、人のためのものなのか、自分のためのものなのか、その答えがどこにもない不確かな建築的脆弱性があるように思います。しかし造形をまとめる力は間違いないと思いますし、作るという楽しさがとても伝わる内容で魅力的なものでした。
SCALE TRANSER
今回の展示で異彩を放っていた作品はこの作品ではないでしょうか。コロナ禍の今、自分の部屋に都市をみるような視野を獲得しています。それはまさしくゲームのような体験のようで映画アントマンの世界のようでもあります。自身のスケールの変更と同時に建物のスケールの変更が行われているような不思議な映像でした。私たちが持つスケール感が解体された時、生まれてくる新しいものがあるのかもしれないと期待させられました。しかしここで終わる提案になると物足りなさがあります。それは物量としても質量としてもです。スケールの問題とはサイズの問題だけなのでしょうか。ボリュームの問題でもありそうですし、その他の問題も含まれてきそうです。ここに建築の可能性があるのならそれを視覚の問題だけに留めておくのは勿体ないなと思いました。しかし、人が挑戦しない建築の道を選ぶことの重要性をここに感じますし私もそのうちの一人です。この起点の先にあるであろう作品の未来が早く見たくなりました。
かってに卒制展
作品全てを見ることはできませんでしたが私なりに皆さんの建築について思うところを展評として書かせていただきました。建築の若い力を見て力をいただきました。これからの建築を想像するとともに建築を一つの仕事として経済活動として成り立たせる、その狭間で揺れ動かされる私がいました。ここはとても刺激的な場となっている気がします。これからもこのような刺激的な場をもっといろんな場所にみなさんと建築していけたらいいなと思っております。
何か思うところがあればコメントいただければと思います。
そして最後に展示をされた皆さんへ、ご卒業おめでとうございます。
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