top of page
執筆者の写真Gaku Sakura

#かってに卒制展 妄想日記

更新日:2020年3月3日

学生たちの思い。

#かってに卒制展 が話題になっている。

この流れをどう理解すればよいのだろうか。

少し考えてみたいと思う。

コロナウイルスの影響で都市は、建物は、何も変わらず機能しているように見えるのに建築は機能していない。あらゆる状況を理解しようとすればするほど自分たちが今何と向き合うべきなのかわからなくなる。

きっと行動するしかない。というところに #かってに卒制展 の建築らしさが潜んでいる気がしている。僕はこの卒制展の気軽さと実行力とそこに建築を見ようとする若い力に喜びを感じている。


私たち世代は東日本大震災のため卒業式が中止になった。

その時と明らかに違うのは都市であり建物である。

あの時の都市、建物は揺れ、崩れ、倒壊し、爆発し、流された。

建築が本来の機能を停止した瞬間だった。

私たちは建築に絶望した。卒業式が中止になってもそれは仕方のないことだった。だれも異論はなかった。命があるだけそれだけで感謝した。


今の状況の中で学生たちの気持ちを考えるとやりきれない気持ちになる。都市、建物は機能しているのに、漠然と目に見えないものに恐れながらの自宅待機。

都市とは、建物とは、そこにあるはずの建築とは一体、、、


リングに込めた思い。

僕のリングの作品には大抵帰る場が与えられる。そういう設定になっている。

多くの場合はそれがキャンバスの裏だった。

しかし今回プレゼントすることを決めた剣山リングには未だ帰る場を与えることができないでいる。

私なりに色々考えた。MVやコンサート等で使ってもらえる可能性を探ってみてはみたもののうまくいかなかった。自分の流動的建築に落としこもうともしたがあまり納得いくものにはならなかった。このリングはとても難しい。

リング+剣山+造花の建築。

死を拒み、生を偽り、人を彩る。そんな作品だからもはや建築の最高のカタチなのでは?と思ってはいるのだけれど納得いかない。どこかに見落としがあるに違いない。それが一体なんなのか私は探し続けている。

今はこの若い建築の場に力を借りたい、そういう思いでプレゼントすることを決めた。



ということで僕の学生時代の卒制作品をツイッターにあげさせてもらった。僕の言葉をちゃんと届けるためには僕も学生たちと似た立場に立ちたい、立たなければいけないと思った。学生が評価される場合それは建築という枠の中でおさまっていなければならない。建築の先生たちの建築に寄り添わなければならない。でなければ一人で自立した建築を目指さなければならなくなるわけだから孤立してしまう。それでも進まなくてはいけない。それは建築のための建築。では建築のための建築を評価してくれる人とは?そこから見つけなければいけないのであるから道のりは遠く険しい。

私はそんな建築を評価したいわけではない。ただその一点に集中して作品を見ればそれが作品と呼べるものなのか、建物で終わってしまうものなのかがわかる。伸びが違う。色が違う。香りが違う。

簡単に言えば他とはことなる展示になるし、プレゼンボードになるし、模型になる。それを怠ればそれは日本建築の枠のなかにおさまる小さな建築なのである。

そしてそんな建築は非常事態の環境にめっぽう弱い。

東日本大震災。熊本地震。私が経験してきた建築。


展開された場における彫刻 ロザリンド・E・クラウス


これはアースワークを理解するために使われる図である。有名な論文であるが建築学科ではどれだけの学生がこれを学ぶのだろうか。詳しくはわからないが建築にとってとても重要な論文である。


この図で見られるのは風景と建築、そしてそれを非する4つのカテゴリーの合間に彫刻が展開されているということ。しかし本来この状況に必要だと思われるのは建築と彫刻の入れ替えなのかもしれない。つまり風景と彫刻それを非する4つのカレゴリーの合間に新たな建築が生まれつつある姿。展開された場における建築

それは前回書かせてもらったリバーシブルアーキテクチャの姿なのかもしれない。

風景と非風景の間に新たな建築がある、

風景と彫刻の間に新たな建築がある、

彫刻と非彫刻の間に新たな建築がある。

そして非風景と非彫刻の間には今まで見てきた”建物としての建築”がある。

僕は”建物としての建築”とは建築のほんの一部分である、ということがただ言いたいだけなのだけど、改めて建築とはなんなのかこの場で考えてみたい。


発展系としての展開された場における建築

建築の展開として見る時に注意するべき点が一つある。

上記の展開された場における彫刻に見る建築とは外から見た建築である。ファサードと呼ばせてもらうが風景と建物のファサードと彫刻の関係しか見えてこない。ここで想像する彫刻というのも室内にあるものではなく屋外にある彫刻を想像したのではないだろうか。

つまりこの図では建物内建築からの視点が失われいているのである。展開された場における彫刻で見落とされた展開された場に置ける建築の視点について見ていきたい。


室内から見る風景とは何だろうか。

室内から見る彫刻とは何だろうか。


室内から見る風景とは窓の外に広がる景色なのかもしれない。

室内に飾られた絵画なのかもしれない。

スマホの画面に映し出されたイメージなのかもしれない。

室内から見るドア枠という一つの区切りを経て隣の部屋は風景と言えるのかもしれない。

室内と室外は単純に入れ変わる、そんな風景だってあるのだろう。


室内から見る彫刻とは何だろうか

それは窓の外に広がる風景としての彫刻家の作品かもしれない。(風景+彫刻)蜘蛛やLOVE。

それは室内に展示された彫刻なのかもしれない。

そこには人の姿があるのかもしれない。

とするとそこにはパフォーマンスという表現も含まれてくるのかもしれない。


内から見る外としての建築があるし外から覗く内の建築もあり、そんな写真があるし絵がある。彫刻や風景のように表面だけでは語れない建築。この場は反転するリバーシブルアーキテクチャ。そして最終的に行き着く先にはハンスホラインの”すべては建築である”という言葉になるのかもしれない。


建築とは言葉であり、イメージであり、パフォーマンスである。それは歴史となり、文化となる。それしか構築する方法はない。

そこに付属された建物がただ佇むだけで新たな建築が芽を出し始める。そんな力が#かってに卒制展 にはあるのかもしれない。





展開された場における建築、そこにどんな価値を見出すことができるか。

学生には私の活動を少し知ってほしいと思った。

これはもう建築ではないのかもしれない。しかし、単純にデザインとも芸術とも言い表すことができないほどに建築に関わろうとする。

この宙ぶらりんの作品に場を与えることができるのはやはり建築なのだろうと私は思う。


みなさんの建築がこれからも魅力あるものでありますように。

日本の建築がこれからも発展していきますように。




























閲覧数:104回0件のコメント

最新記事

すべて表示

新建築論#5

建築使 "建築のART性とARTの建築性"  ここからは建築のART性と芸術の建築性に焦点をあてて作品を観ていきたい。 ここで私が求めるのは建築性とART性が交わる領域を認識することであり、またそこから現代建築のコンテクストを...

新建築論#4

建築姿 ART/ 建築 芸術と美術館  ここまでは近代以降、建築がどのように形作られ、発展してきたかを見てきた。 私たちが一般的に考える建築というのは現在も建物の設計の話である。 その中で私たちが気づき始めたのは建築と建物は現代ARTの誕生とともに全く別の”もの”になりつ...

Comments


ロゴ-1.png
bottom of page