次の個展を2024年あたりに考えつつ動き出している。それまでに勉強したいことや手に入れたいものも少しずつでてきた。そしてなにより建築について深く広く没頭したいというのが正直な気持ち。
海外に簡単に行けない状況ではあるがいつかは海外でのお仕事もできたらいいなと思っている。日本という場で建築を発信するより刺激に溢れているのは間違いない。それはアンビルドの歴史もアートの歴史もそれから新しい時代の建築についてもその中心は日本ではないから。日本は独特な文化形成をしている。それはいいことなのだと思う。ただその文化を全てだと思った瞬間世界が奇形する。それは危険なことだし私の望む建築とは異なる。それは避けなければと世界の情報に目を向ける。私はいつだって私でなければならない。演じるその時も。誰かの目で物事を捉えようとした瞬間、その情報の濃度は薄くなる。誰もが必要とするものを作る必要はない。それがアート、建築に属する者の使命だと思う。誰もが必要とするものはいつだって必要とはされるが大事にされない。投げ捨てられる。文化を進めるためではなく維持するために使われる。それは私には属さないものたち。
一昨年。
一昨年からバイクに乗り始めた。今では大型の免許も取得していずれは大型バイクに乗りたいなと考えている。スイスの山をアドベンチャーバイクでツーリングもしてみたいし、アメリカの広大な大地をハーレーで横断したいなとも考えている。ヨーロッパの街並みを日本のネイキッドバイクでツーリングこれも面白いかもしれない。これは一生をかけた私のプロジェクト。そういうものにしたい。
バイクを買った理由。
まずコロナ。最近生き方が堅苦しいなと感じていた。電車に囚われ、時間を奪われるような感覚がずっとあった。この感覚は熊本では感じなかったのだが東京ではそれを強く感じる。大切な時間のかけらを駅に置いてくる。それを映画のようだなと思い最初は気持ちも良かった。しかしだんだんと苦痛になる。置いてくる時間もひとかけらではなくなってきて大量の時間を浪費していることに気がついた。これではダメだと思った。
東京の道を知りたいと思うようになったことも理由に挙げられる。東京暮らしも10年くらいになるだろうか。駅と目的地までの道はなんとなくわかる。が、道と道がつながらない。それを少し不気味に思った。そんな感覚を解消したいと思った。
今さら歩き続けて東京を知るなんてことをする気もしない。歩くことの意味が少しづつ変わりつつあることに気がついていたから。時間を消費するには歩くことが大事だ。そして運動という点でも。しかしより多くの情報を得ようと思うのであればバイクという手段は最適である。バイクを通して天候や標識、地形などありとあらゆる情報が飛び込んでくる。その経験はなかなか貴重なものである。
車という選択肢は建築との相性からいって外されることになる。動く部屋はどこか建物に似ている。それはトヨタでもベンツでも同じこと。快適だとは思うがそれ以上の体験はない。
空間という四方を囲われた状況はなぜかその空間が自分のものになったと勘違いする。全てを把握できているような気がするし、感覚を鈍感なものにしていく。知を学ぶならこの空間は最適である。それは過去の知識。感覚を鈍らせ脳に記憶する作業。
しかし今私たちの学ぶべきものはこの囲われた空間にはない。そして今後歴史を蓄積するのもここではない。学ぶを知識ではなく経験に置き換えなくてはいけない。
行動範囲を駅周辺からもっと外に広げられたら私の世界はどう変化するだろうか。全てが駅を中心に考える街の仕組みに限界を感じ始めた。それは経済的に不健康だと思った。その不健康さに対してバイクは栄養になる。原宿に停めても、新宿に停めても1時間100円は魅力的である。駅中心の行動が解体され、常に自分が中心となり行動が構築されていく。それを建築だと理解することはなかなか難しいがその手応えのようなものを感じ始めた。都市を知り、自分の空間というものをあえて手放す。私空間を失い自分の居場所を建築しようと試み始めた結果、行動範囲は格段に広がり今までとは異なる多くの景色を手に入れた。そして名建築たちのことも。今日はそんな私が手に入れた建築の景色を紹介したいと思う。少し写真だらけになってしまうがご了承願いたい。
Dior SANAA
東京駅 辰野金吾
Ginza Maison Hermès Renzo Piano
森山邸 西沢立衛
GINZA SIX 谷口吉生
浅草文化観光センター 隈研吾
すみだ北斎美術館 妹島和世
藤本壮介
平田晃久
ホキ美術館 日建設計
ピーターアイゼンマン
高松伸
今日はここまで紹介する。これでもほんの一部である。東京、神奈川、埼玉、千葉の建築をたくさん見てきた。雑誌でも紹介されるほどの有名建築。建築のことを語ろうと思い建物を見る。そういう経験はいいものである。建築の歴史を感じ、場を作る意志を拾い集め、人とどう呼吸しているかを知る。
もしバイクが好きな方がいたら建築探訪してみることをお勧めする。建築が好きな人はバイクに乗ることをお勧めする。この二つの相性の良さを実感するはずである。しかしそれと同時に建物が建築と分離し始めていることを感じることもあるかもしれない。その感覚はきっとはずれていない。私たちの知る名建築が古めかしいものに見えてくるかもしれない。なぜならそれが佇むものだから。時間とスピードと環境変化の力に建物は取り残される。追いつくためにバイクにまたがる。アートの変化にデザインの変化にカルチャーの変化に追いつくために建物を置き去りにする。時に立ち止まることはあるけれど逆戻りはしない。
鉄馬に乗り建築が先に進もうとするその意思を知る。帰る場所とは昔の言葉のようで、今では居場所を多く作ることが建築とされる。それがSNSの中でも仮想空間でも構わない。もちろんそれがバイクでも。今の私たちに帰る場所は必要ない。建築が建物から離れていく。時間とともに速さとともに、歴史とともに。四角い空間を作ることから居場所を作ることへと建築が流れていく。建築を生きる。そんな言葉が現実的なものになりつつあることを実感する。
私たちの居場所
居場所とはなんだろうか。それを私たちの体を包む大きさで理解してしまうのは非常にもったいない。人はその大きさに居心地の良さを実感する。自分が支配する空間=居心地の良さである。それが自分の部屋であったり、トイレであったり、車の中であったりする。それらの居心地の良さを疑う人は多くない。居心地が悪い場所から逃げる場所。独りになれる場所。誰にも迷惑をかけないで済む場所。それが居心地の良さだと錯覚する。あまりに寂しい空間である。私たちの居場所は居心地の良い場所ではない場合が多い。それが私の知る建築の姿である。今を生きる私たちの建築、それは意図あるモノとコトの間に立ち現れる。
私たちの居場所は缶詰にも作ることができる。赤瀬川原平の宇宙の缶詰。缶詰のパッケージが表面から取り外され内側に貼り付けられる。すると缶詰の中は外で外は中になる。世界が反転する。それは思考のゲームのようなものでは決してない。全てに置いて内側と外側は簡単に反転する。私たちが缶詰の商品になるのだろうか。果たしてカニはどこにいったのか。それでも私の居場所は確かにここにある。
居場所を足元に作ってしまうことで常に私の居場所は私の居場所であり続ける。そんなスニーカー。私が一歩進むと私の居場所も一歩進む。当然ながら履き心地や着心地はまったく関係ない。居場所とはものや人との繋がり、関係によって作り出される。意味を発見する冒険のようなものである。それは安全、安心とも違う。面倒なことも億劫なことも含まれる。居場所を作るという建築は簡単なものではない。が楽しむことができる。きっと居心地もだんだんと良くなるはずである。そういう個々人の愛着が建築を強くする。
居場所があることは大事である。居場所は一つである必要はまったくない。多ければ多い方がいい。それを維持しようとする必要もない。次に次に進めばよい。居場所を作る方法を提案する建築家でなければならない。あなたの居場所はどこにありますか。その問いに向き合わなければならない。
居場所がなければ自分の世界に篭る。居心地の良い場所だと錯覚した場所へ。それは居心地がいいのではなく、他よりましなだけ。それは建築の提案する場所から程遠い。
場を構築するものとして。建築家として。世界の内側と外側はいとも簡単に反転する。きっとあなたが感じる室内の魅力は空間のそれではなくSNSやゲーム、Wi-Fiのあるさらなる外の世界に対してだろう。これまで育んだ私たちの距離感をいとも簡単に超越してしまうそんな世界。建物内の"生きる"に敏感な建築家は実はそれほど多くはいない。なぜなら内と外はもうすでに反転してしまっているから。
建物探訪
バイクでの建物探訪。それは建築の外側を体験しているのではない。建築の内側を体験しているのである。私は以前、尊敬する建築家に建築は外より内が大事だと教わった。しかし時代が変わり、建築の意味が変わり始めたとき建築の内と外は反転した。モダニズムがポストモダニズムへと移りゆくなかで徐々にその姿を認識し始めた。確信したのはデコンの建築たちである。私たちの建築は表層に現れるようになり彫刻と化した。彫刻と化したことによりモダニズムでは内と考えられた室内は建築の外へと追い出された。室内はホワイトキューブを終点としている。今のところは、、、そして今私たちが建築を判断する要素も大概の場合はその彫刻化した表層的な部分に限る。実際、すべての室内を見る機会は圧倒的に少ない。
そして室内にあるものは居場所としてではなく居心地の良いものとして錯覚させるための道具として存在する。これから絵画は室内に篭るのだろうか。家具はどうだろうか。そして彫刻は。インスタレーションという言葉が生まれた原因はきっとここに意味がある。既存の空間とアートを分断するためのシステム。絵画や彫刻をインスタレーションとして捉えることができるか否か。それが展示という言葉に帰属する。すると私たちは日常を超え芸術という外の世界に触れる。そこに既存の空間、四角い箱は忘却される。この時私たちは空間に囲われるのではなくアートの世界に包まれる。絵画や彫刻の流動性がある限り芸術は世界を作り続ける。
そして今私はグラフィティに目を向ける。今私たちの建築の内にある事象としての絵画を。
彼らは居場所を作ろうと絵を描く。大抵の場合は居心地が悪いと感じさせてしまうこのような絵。彼らの絵は少し強引に見える。私たちの居場所はこうやって取り合うものなのだろうかと。共有することを拒絶するような絵。しかしそれは広告も看板も同じである。そして彫刻化した建物もまた同様である。
とてもお行儀のいいものだとは言えない。しかしとても素直な絵ではないだろうか。表現者としての自分を見て欲しい。上手いとか下手は実際あるがそれ以外の部分が重要であったりする。どんな場所にどれくらい描いているか。その土地を縄張りに生きる。たまには遠征したりして、自分の旅の痕跡を残す。するとそこにその人の人生が、生きるがついてくる。その人の姿形を知る術はない。しかし、ここにもあそこにもその人の面影がある。都市に影を落とす。それはまさに建築であると言える。
自分たちの存在を示し、価値を示す。それが強引であるかどうかはもはや関係ない店舗。その中で生きるしか方法はない。この現実を見ないために私たちはモダニズムの部屋に再び戻るのかそれとも新たな建築を目指すのか。
私たちの都市は私たちが思っている以上に実は自由である。それは合法だとか非合法とかは実のところあまり関係ない。都市は生きることそのすべてを飲み込もうとする。警察というコスプレをした人が、マックの店員というコスプレをした人たちがまさにコスチューム・プレイをして1日のうちの8時間くらいを過ごす。制服とコスプレその違いは何処へ。そんな理由さえも都市は飲み込みどうでもよくさせてしまう。何かを証明させるためにバッジを保持したり、身分証を持ったりする。まさに人がものに縛られる。そこに自らの居場所を確保する。しかしそれは自ら手に入れた居場所ではない。与えられた居場所。許可を得て見つけた居場所である。
そこにいる人は窮屈だと感じることもあるだろう。そしてモダニズムの四角い部屋へとまた戻っていく。そんな日々の繰り返し。しかしそんな都市からこのような絵を見ればまだ純粋に自由だなと思える私たちの建築がある。それを消そうとする人もいるが消したところで意味はない。次は別の形で表現は流出する。それが彫刻になったりインスタレーションになったりする。
建築するための物語は人を建築する。自分の居場所を作る。
多くの場所に、多くのものに、多くのことに、建築をする。
この続きはまた今度。
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