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ちのかたち展。から考える。

更新日:2018年9月22日


藤原徹平さんがツイッター上で「自分の道がある。建築の展覧会に意味があるとすれば、自分の道について考える機会になる、ということにつきるのでは。スターシステムのオーディション(自己承認欲求の応答の場)ではないわけだからよく見せようとかしても意味ない。展覧会の出展料みたらよくわかる。日々つくっているものを出すべき。」だとツイートされていました。

なるほどですね。

僕はオーディションだと思って挑みます。

自分の作品のコレクターになってほしいな。

あの人に褒められたいな。と思います。

そして日々作るものは人によくみられるモノじゃなきゃそもそも作る気にもなれません。制作を作業にはしたくないです。

藤村龍至さんの展示についてですが、これだけ建築展について考えさせられたのは初めてです。

展示のバリエーションや模型の量、インスタレーション的に展示される作品たちはかなりアート的な要素を含んでいるように見えました。

それは非常に豊かな建築の土壌を表しているかのようです。

数多く並べられた模型たちの変化はソルルウィットの作品を想像してしまいます。

とてもシンプルなモジュール構造がアイディアによって少しずつ変化していく、この姿はとてもシュールなものです。建築家と施主とのダブルネガティブが存在します。本来目には見えない構造を可視化しようとしているようです。つまりそれは建築家の作家性を否定する、といった内容になります。

AIを用いて制作された椅子、それはジョセフ・コスースの「1つと3つの椅子」からの引用なのかもしれません。意味としての椅子とイメージとしての椅子と機能としての椅子。それが融解していくような、椅子と呼べるのかわからないような椅子。そしてコスースと同じようにこの椅子には座ることができません。この椅子は一体なんのための誰のための椅子なのか、AIは一体誰のための椅子をカタチにしたのでしょうか。

外を眺めれば人が座ることのできる椅子が設置してあります。それは"ある"椅子を否定するかのようです。そして人々の会話を促すような関係性を生み出そうと建築家が躍起になっているようにも見えます。

AIと建築家の真剣勝負がこの椅子の間で繰り広げられます。果たしてどちらが優れた椅子なのでしょうか。建物の中に設置されたAIの椅子と外に置かれた建築家の椅子。建築家の椅子はあえて外に置かれたのでしょうか。それともAIの椅子に追いやられてしまったのでしょうか。

不思議な構造体は人の行動を促し映像へと目がいきます。足を止めると交通渋滞が起こりゆっくり見ようとも思わないインスタレーションがあります。荒々しい解像度をもって作られたかのような柱が行動を邪魔をし、触れなくとも自然に崩壊していきそうな建築です。(石上さんのもそうだったように)

映像という記録として守られた理想の構造としての建築と現実の世界の建築の弱さが混在し、そこには建築家の葛藤が伺えます。

自然の摂理に従うのか、抗うのか。

藤村さんが本を書くことも記録に関する建築と理解します。すると建物という建築の不完全性が露呈されていくようです。建物は不完全であるが、私たちの作る建築は完全を目指すプロセスである。と。

建築家としての道は果たしてどこにあるのでしょうか。

よい建物を作ることでしょうか。

新たなコンセプトを建ちあげることでしょうか。

本を作ることでしょうか。

建築のルールを作り変えることでしょうか。

と私なりのちのかたち展の読み方。


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