まあなんとなくそれらしいタイトルをつけてパソコンと向き合っている。
今はなんだかとても新鮮な気持ちでいる。それはオルタナティブなんて言葉が自分の頭の中からでてきたことへの驚きと、そのあまりにも漠然としたタイトルから何を書こうかと頭が回転し始めたからだろう。
オルタナティブ。それはまあ代替案とかそんな意味で扱われる言葉である。今の現状に危機感を覚える人のためのスローガンのような言葉でちょっぴり恥ずかしい気持ちもある。
が少しこの言葉と真剣に向き合うことにしてみる。
起業、独立
起業やら独立という言葉が最近私の周りで行き交っている。それを聞いてもどうも心から祝福できないのはなぜだろう。そんなことを思った。少し考えてでてきた答えは一つ。話を聞く限りきっとその事業はこれまでの歴史の中で形作られた枠から脱出できない領域の話で既存のストーリーの中で彩られることになると簡単に想像できてしまうから。そしてそこにある豊かさが表層的に装飾された自分たちのチープさを体現してしまうことを楽しんでいるようにも見えるから、である。
事業の名前もロゴも売る商品もどこからか借りてきたものを使って転売することが起業という答え。法的に問題があろうとなかろうとお構いなしなのは中国の偽物のディズニーランドのようで未来に予想がついてしまう。これを繰り返していると本物と偽物という違いが消失する。いいものがわからなくなる。もちろんアプロプリエーションは発動しない。トゲのない盗用は芸術にはならないし革命にはならない。
それは商品を売るのではなく自分の魂を売る行為。自分の魂を売り続けられた人を私は知らない。罪悪感を売り、羞恥心を売り、最後に売れ残るのはプライドだろうか。売るということは生きる上で重要である。が売るということを理解していない場合が多い。自分の"今"から作り出されたこれまでの歴史を商品にしなければそれは消耗するし、消費される。失敗は大事だが責任の足りない失敗では意味がない。事業を起こすのも独立するのも最低ラインは自分の名を社会に晒すこと。自分の名を事業名にするくらいがいい。そして他社、他者にないプレゼンスを。匿名性は良い商品には無縁なはずだとそう思う。いいものを売るのにサービスを売るのにハッタリは必要ない。
既存の構造と構造を組み合わせて複合体として事業を形成しようと試みると問題になるのは毎回その複雑さが故に化学反応が起こしにくくなること。もっとも参考にできるのはテーマパークとショッピングモールである。成功するテーマパークというのは長い歴史の中で完成しそれでも未だ未完であるということが重要であったりする。つまり新陳代謝する。それはサグラダファミリアのようなもので未来の完成のカタチは人々の頭の中にあることが重要。完成の未来を現実にしてはならない。それは一つの希望になるし欲求になる。
反対にショッピングモールは大抵の場合失敗だと言える。新陳代謝を繰り返し未来のカタチは未定であるにも関わらず。なぜか。ショッピングモールは現実を売るからである。明日必要な食材、衣服、本を買う場所。新陳代謝するとは言うもののその中身コンテンツはさほど変わらない。何より問題なのは動線を新陳代謝させようとしないこと。お店からお店へと歩く道。駐車場への道。ショッピングモールの重要地点はストリート。その小さな街を体験するのは店舗ではなく道である。道が魅力的に未完であり続けなければいけない。そうでなければショッピングはアマゾンでするし楽天ですることになる。道が出会いの場でなければショッピングモールは廃れる。
飲食店にアドバイスを求められる場合、その大半は集客に関すること。如何に集めるかという内容で写真映えしなければいけないし、インフルエンサーが鍵になるという。それは老舗でもなんでも同じこと。どんな人がいくお店なのか、それによって信頼が変わってくる。話題の物事を写真におさめて流行を追う。マジョリティのなかにもマイノリティが存在しているという錯覚。つまり私たちが流行を作り出したと。それはマジョリティではなくマイノリティであると。なかなか面白い現象が起こっているように見える。ただマジョリティもマイノリティも結局のところは意味のない分節であり、そこに価値はない。あるのは人の多さ少なさである。それはとてもあやふやなはっきりとしないもの。本質に戻るとその投稿に関わる人の多さが他者の認識するところ。そこに属しているか、属していないのかの違い。つまりマジョリティの中にはマイノリティは存在しないということである。
結局のところ美味しい料理を作るしかない。美しい味と書いて美味しいと書く。漢字とはよくできている。つまり美しいと思わせる体験が必要なのである。人それぞれ美しいの意味は異なる。料理はその人の美しいに寄り添えなければいけない。だから移動することも考えなければいけないし、変化を受け入れる力も必要になる。なにより飲食店は難しい。一人一人と向き合う難しさと環境の変化に対応しなくてはいけない。研究するにはいい環境である。が生き残るのは至難の技である。難易度S。
建築の場
私が建築を学び、建築に生きると決めたのは中学生の時だった。デコンと呼ばれる建築家の作品に心踊ったのを覚えている。それからは多くの建築を見てきたし、読んできたし、体験してきた。そんな経験を蓄積して身体が覚えたのは一種の閉塞感のようなものだった。大学に入ったころにはどの建築とどう向き合っても自分の記憶の外にある初体験にはならなくなった。そして自分が建築を学ぶ理由が学ぶたびにわからなくなっていった。学ぶということで楽しいは消えていった。
周囲の人は起業、独立をしようとしている。が自分たちの足場がどうなっているかはさほど気になってはいなさそうだ。自分たちがどのような看板を掲げるのか。今では看板はプラカードのようになっている。つまり手持ち看板。場は必要ないのである。そして一生その人について回る責任となる。SNSの発展は建築を土地から引き剥がした。建築は人の生き方そのものになった。だから安易なことは今まで以上にできなくなった。失敗も好意的失敗でなければいけない。失意失望の失敗は再起不能を言い渡される。そんな社会の中でアノニマスは有効な建築の表現となり得るだろうか。建築が土地に置き去りにできる過去の方が思い切った盛大な失敗ができた。現代は情報がもっとも価値があるものになった。流動的に一瞬で世界の裏側まで届く情報、数百年、数千年と残る情報が価値あるものになった。
だから私たちにとって大切なのは盛大な失敗を声高に歌えるHIPHOPである。彼らはサンプリング/カットアップ/リミックスする。それは新たな表現の創出でありパクリとは異なる。むしろ彼らの失敗とは生きることに関するストーリーである。ウィードを吸い、パンダに乗った犬にパクられる、そんな日々の失敗である。そんな失敗を好意的失敗としてカッコいいと思わせるのはそこにHipHopの歴史があるからである。つまり失敗を背負おう覚悟を持って歌うからカッコいい。
そんな覚悟を建築も必要とされているようだ。建築の失敗をその定着した土地に置き去りにしてきてはいけない。建築家が背負わなければならない。それは耐震構造だけの話ではない。建築家は建物を終え、建築を始めなければならない。
またマイホームに夢見る家族が私の周辺には大勢いる。マイホームという一つの建築の場。それを一つの資産として考えて欲しいと私はいつも言う。マイホームとは一つの場に定着する決意表明である。会社や社会にマイホームを買いました、と宣言するのである。その土地に拘束されることによって転勤を免れようとするし、環境の変化の言い訳に使ったりする。
が定住は現代においてリスクしか残らない。理由は簡単な話で情報の価値についてである。情報の価値は流動性によって生まれる。そしてその情報の価値と反するものが今の建築である。流動性を獲得できないその定着という言葉が価値をぐんと下げる。新陳代謝することもないので情報は古びていくだけである。後は佇むという哀愁の漂う過去の話として終焉を迎える。
マイホームとはそういった類のものである。家族が増えたり減ったりする状況に適応できない。夫の転勤を機に一緒に連れていくことはできない。災害があっても車のように移動することもできない。救助できない。そのマイホームに夢をみるのはなぜだろうか。
私の建築
これまで私も十数年建築と関わってきた。見えてきたのは建築の停滞である。そんななかで建築を動かそうと躍起になった10年間でもある。すこしだけ自分の歴史について振り返る。
とても痛々しい記憶であるが議論の種にでもなればいいなと思う。
私の経験からするに私には瞬発力がない。瞬間瞬間の状況に適応するのに時間がかかるし、突発的な行動はだいたい失敗する。
コロナ時期、熊本に移動して展示を計画できないかと帰ってすぐにこんなことをやった。納得はいかなかったもののこれが今の実力だなとyoutubeに記録としてアップしている。私の記憶が過去の部屋でどう交差するのか知りたくなった。演じるを寝かせてみたときの私がとる行動に興味をもった。この時私のとった行動には責任がまったくなかったし、夢のようなもので浮遊しているようだった。そうトイレットペーパーのように切れやすく、水にも溶けやすいようなフラフラゆらゆらしたものだった。ここで理解した。突発的な計画性のないものをこなすのは向いていないなと。
4:33というタイトルで何かをしたいと基本的に時間に対するテーマを考える時はこのアイディアから始まる。とても恥ずかしいが安易な私がいる。4:33これは273秒つまりこの数字は絶対零度である。すべてが凍りついた静寂の世界。聞こえてくるのは私たちが生きる音。私たちの魂の音。コロナで世界が動きを止めたようだった。もちろん実際には動いているわけだけど立ち止まることしかできなかった私と向き合うための時間が必要だと思った。建築に夢みた私の過去の部屋で。
というと聞こえはいいのだろうか。実際はそんな大したことはない。フェリックス・ゴンザレス=トレス『無題 (今日のアメリカ)』では飴玉がこんな風に展示されている。その重量は恋人の体重で。という内容なのだけど。
日本にはもの派があるのだからキャンディーではなく石にしよう。恋人とは別れたばかりでその愛を表現するにはちょっと重いなと思ってこの木製パネルの広さの面積を埋め尽くすだけの石を一か所に集めてみた。私は色が苦手だ。その意味について考えてしまって手が止まる。だから建築のように物質を扱うことが好き。色について考える必要もなくなるから。素材の色を愛せばいいなと思う。
これもまた誰もが思いつくようなアイディアでアイロニカルさもトゲのあるものではなく、平和ぼけした強度のない作品が4:33ただただ流れる、熊本の風景が見える。私が建築で表現したかったのはこのような日常ではなかったはずだ。デコンに憧れた中学生だったころの自分にこの作品は見せられないと思う。中学生の自分に軽蔑されるのがわかる。お前が学んできた建築とはこんなものだったのか。考えろ、手を動かせと。
時間をかけて練りに練った作品にはやはりそれなりの完成度が手に入ることも知っている。造形をまとめるのは得意である。指輪とお花というありふれた関係性に違いを生み出したいとふと思った。私はこの思いに建築を取り入れなければ私ではないと思った。指輪とお花と建築の関係性をまとめあげる作業。指輪の機能とお花を生ける剣山の機能とそれからお花。花はイミテーションを使った。私はジュエリーのデザイナーではないことの表明をしなくてはいけなかった。そして華道家ではないことも表明しなくてはいけなかった。私はいつだって建築家であることを表明しなくてはいけなかった。
建築の新たな土地を探していた。それもとても流動的な場所。人の指というはなかなか面白い発想ではあった。脱着も容易である。安価なものではないが今後何百年、何千年とカタチとして残る可能性のある素材としてシルバーを選択した。未来に花束を送りたい気持ち、、、そんなものは決してない。そんな気持ちはイミテーションだが、建築に対する思いは本物だった。
オルタナティブな建築
簡単には見つけることができないであろうこの言葉、オルタナティブ。長い間土地に定着し続けた建築の代替案などそう簡単に発見することはできないと思う。あまりにも考えすぎる時は自分は無謀なことをしようとしているなと恐怖心を覚えることもある。それでもこの活動を止めないのは建築がやはり好きだからである。未来の完璧な建築を作ろうとは考えない。が建築の新たな可能性の一つとして社会に提示できるはずだという確信はある。無駄か無駄じゃないかの判断をしてみてもこの活動を続ける価値はあるという判断。
建築を流動化する。
今後10年の間に変化する未来をどう想像するか。ほとんどの人の仕事がAIにとって変わる未来。法律の専門家もモノを売る営業マンも事務の人もコンビニの定員も政治家も。何が生きる方法なのか。確かな未来はどこにもない。未来を作ることを考える、そんな学問としての建築が必要なのだと思う。
オルタナティブを目指して。
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