今日展示を見てきた。
いい建築展だった。
理由は一つ。展示が一つの建築になっていたことだろう。その建築は「CINE間」という。
ただ映画を上映する場所を作った訳ではない。そこにはロビーがあり、廊下があり、上映中のポスターがあり、時計があり、タイムテーブルがある。そしてそれらの映画に使われた舞台装置の模型まで展示するという、、、映画+@を一つの映画館として建築してみせたのである。
建築を展示するということがどういうことなのか、建築映像作品との向き合い方、そこに新たな可能性を示して見せてくれた。
この展示はつまらない情報の集積として見せようとする建築家の展示とは一線を画す。本来建築家がやってしまいがちなのは模型やドローイングをずらーと並べて、「ゆえにこの建築が出来上がりました。」という自らの建築の正当性を示そうとする展示。しかし、中山英之は建築を展示するということを建築しようとしたのである。
工業系の建築大学を卒業した建築家は展示を軽く見る傾向がある。展示するということがどういう事なのか理解しないまま、「ありのまま」を武器に建築をアーカイブしてみせるという。しかしそのアーカイブを図書館や美術館、博物館にしようとする建築家はいない。それはなぜか。展示を、展示の意味を考える建築家が日本にはほとんどいないからである。
本来建築のあり方というのは展示されるものである。それに対して彼らにとっての建築は「使われてなんぼ」という、、、紛れもない建物なのである。しかしこれは建築にはなり得ない。
あなたの理想の建築家像を想像してほしい。彼らは例えば語り、文字を書き、建物の写真を撮り(イメージ化し)、ドローイングを描き、学生に教えるだろう。建築家にとって建物は建築を伝える手段にしかならない。
中山英之は違った。ここに一つの映画館を建築した。ポスターはたわみ、時計は手書き、上映の環境としては微妙な椅子。それは一級品の映画館ではなかったものの、私たちに親しみのあるローカルな映画館であった。
とここまでで中山英之評は終わるはずであるのだが、、、
彼は映画館を作る設計者では終わらない。
この映画の中では彼の作った建築が舞台となる。つまり本来のスケールを映像という枠に押し込める舞台監督でもある。この映画館の中では建築の建物性はむしろ邪魔になり、それに変わって舞台性が重要になる。
”ここ”は本来の建築とは違う建築の可能性を引き出そうとするための映画館なのである。
映画館を作る設計者では終わらない、彼は建築家である。
しかし彼は映画監督になることを拒んだ。脚本家になることを拒んだ。音楽家になることを拒んだ。建築家として、、、なぜだろうか。
今回中山英之は映像を使って私たちの足元を建築したのだろう。ここにある私の"足元"そして映像の中でパフォーマンスする彼らの擬似"私の足元”を。音や映像のサイズ、解像度、言葉を建築とは切り離した。それはこの映画館を建築するために仕方のない選択だったのかもしれない。この映像で完結することのない建築を作るために。
彼の映画館には彼自身によって書かれた言葉で埋め尽くされる空間がある。それは映像の中にあるはずである脚本、言葉の建築ではないだろうか。そんな音符が空間に散りばめられている、そう理解することができれば彼はやはり映画監督、脚本家、音楽家なのである。
そして彼は一つの建築にまとめ上げる。映画館という建築。非常に魅力的な建築だった。
この展示も映像化されることになれば、、、私たちにもまた新たな枠が与えられることになる。するとこの建築は拡大し続ける映画館となるだろう。そう理解すると映像の中で建築家としての自分と建物を切り離そうとした意図も見えてくる。
それはトムサックスが東京オペラシティ アートギャラリー、小山登美夫ギャラリー、KOMAGOME 1-14 で展開し拡張されたティーセレモニーのようだ。
ここに味や匂いはない。ポップコーンの匂いもコカコーラの刺激もない、、、私の知る映画館とは異なるが建築の可能性を感じる建築であったと言えるのではないだろうか。
しかしやはり私はここにコーラがほしい。
がこれも一つの映像作品なのだろうと、その脚本に従うのである。
自身の個展から始まり、トムサックス展からの中山英之。それは一つの流れとして読み解くことができる。
それは建築の流動化、液状化である。
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