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執筆者の写真Gaku Sakura

ギャラ間。SANAA。そして、、、

緊急事態宣言解除後、久しぶりのギャラリー巡りを実行。

まず初めに作品との距離感を掴むのに時間がかかったということを正直に話しておかないといけない。

私なりに考えるとやはりここ1年ほど圧倒的に他者の作品と向き合う時間が少なかった。コロナ禍で人との距離感を見失い、作品でも距離感の問題で戸惑うことになる。当たり前の体験を当たり前にできなくなる。今までと異なる日々。


パンデミック。生き方を問う時間。死に方を選択できない場。時は刻々と過ぎていく。

それでも確かな生を実感していたことだけは忘れないでおく。

たとえ演じる毎日であったとしても、舞台装置としての空間がリアルに引き戻されそうなこの一瞬も。今を過去にしっかり置いてこれるように。


もう一度手探りで、未来に立とうとしなくてはならない。


そんなことを考えれば建築と建物との間には溝のようなものが生まれる。それはどうやったって埋めることができないらしい。

過去に引っ張られる。



SANAA

展示の写真、実はこれしか撮っていない。

なぜか。その理由は正直に話さなければならないと思っている。

撮ることと他者への問題。作品との距離感が近すぎる故、人の気配が邪魔をする。この展示を若い人にはあまり見せたくない。なぜならこれは建築家としては無謀とも思える配置計画だから。(美術館を設計してきた建築家とは思えないほどに。)人は作品の合間を縫うようにして移動する。そして私たちは問うことになる。これは果たして作品と呼べるものなのか。

模型、経過、過去のものを見せられているという印象。私たちはここに何を求めるのか。

誰もが”もの”との距離感を失っていた。そして当然人間との距離感も。何を見るべきなのかその焦点が合わない。世界の状況に心綺楼がかかったかのように密接な空間が出来上がっていた。

模型はスタディ模型のようであるし、柔らかい。故に親しみやすさを得ていて大人のシルバニアファミリーのようである。作品にぶつかっても仕方のないような展示であったし、壊れても文句は決して言えないような展示だった。それは大切にされている作品とはどこか距離のあるものである種のどうでも良さのようなものが空間全体に広がっていた。


現代建築の難題と呼べばいいのか、これがポストモダニズムなのか。SANAAのSANAAらしさは情報の多さとともに失われ誰のものか誰の意志かすら読み取れないほどの作家の不在、建築家の不在を感じる。所員たちのSANAAらしさのコピーのようですらありどこか空虚な模型が立ち並び、時に浮いている。

建築の展示とはなにか。

それは1/1作品でなければならない。そして建物という枠の内で新たな建築を創出しなければならない。そうでなければそれはただの模型展示となってしまう。建築がプラモデルへと変わり果てる時、プラモデルほどの精巧さを保たなければならない。それすら叶わなければそれは。。。レディメイドであることの難しさを実感するだけで見る側は絶望に陥る。

ここにあるのは作品になりきることのできなかった縮尺の違う"もの"。となればここはトラッシュボックスか。もしくはプレゼンが終わったあとの模型が置き去りにされた教室のような場所。私はSANAAの何を見たのだろう。



ギルバート&ジョージの作品。リビングスカルプチュアな二人が生きた証を見た。作品の大きさに驚くだろうか。作品の攻撃的な刺激にやられるのだろうか。多分、きっと違う。

その時代のシュールで生々しい二人の目がここに現れる。パフォーマンスを行い、社会を見る。それは己の目とは少し違う。他者の目と己の目。その中間地点における新たな目の獲得。それは一つではなく、2、3、4、、、、と増えていくようで社会の構造と個の乱雑さに対してギリギリ成り立つようなバランスを保持している。それはこの作品のマスに現れ、建築に現れ、花に現れその元で働く私たちに現れる。それをヒエラルキーと呼べばいいのだろうか。

演じる入口とはこんな場所のことをいうのだろうか。

考えることは尽きない。それでも前に進もうとする人だけが入ることを許されるGATEWAY。演じることを恥じることはない。演じることこそ現代を生きる術なのかもしれない。


ブログから離れていた間に書きたいことがたくさん生まれたように思う。芸術に建築にデザインに料理に。


今日は手始めに。ダンスについてでも書こうと思う。


D.Leagueが始動した2020年。初代王者はやはりこのチームだった。RHT。この世界にいる人間なら知らない人はほとんどいないであろうRieHata。振り付け、構成とこの舞台によく合うように設定されている。この場を読み解く力はこのシーズンで別格だった。


そしてどのメンバーを見てもこなしてきた場の数が違うなと実感するスキルの高さ。

キレのよさ、アイソレーション、基礎のステップからオリジナルのステップ。そのすべてがswagと呼ばれる新ジャンルの可能性を感じさせるショーケースであったと思う。


そして面白かったのはRieHata自身が歌い振りを作るというこの場の構成。そもそもダンスは歌に付属するような形でTVに流れた。しかしその構造の不思議な違和感を正すかのように曲を自ら歌い振り付けを行った。それは歌とダンスの順番をフラットにした。歌ありきのダンスという構造からの脱却であったように思う。つまり何が言いたいか、シンプルに話すとこれはダンスのための歌であり、決して歌のためのダンスではないということ。オリジナルのダンスを生み出すことは難しい。それほどにダンスの歴史は相当長い。その歴史の中で新たなオリジナルを探すということ、それは既存構造の解体から始まる。


そして久しぶりにアイドルがちゃんと今のダンスを踊っているのを見た気がする、、、

振り付けがMelvin Timtimで納得。Melvin Timtimがどんな人物か。

つまりはこういうことで。踊っているのはRHTのメンバー。間違いなく注目のSWAG。優勝した彼らがD.Leagueを去ったのは少し残念であるが注目しつつまたブログに書きたいと思う。


バイクのことを書こうと思っていたのだが今回はダンスにした。バイクについてはもう少しじっくり考察して書きたい。これからの建築に影響を与える一つの可能性として。現在私たちの都市構造にどれだけ入り込んでいて、これからの関係性はどうなっていくのか。そして現代建築との接点から次に考えられる発展とは何か。考えることは山積み。


ダンスの動画多めで今回はストリートダンスの今を紹介した。もっともっとこのカルチャーに触れてほしいと思う。その理由は少しずつわかってくると思う。新しいものが、文化が、今後ストリートからしか生まれることができない可能性がある。それはダンスに限らずアートも建築もデザインもである。それは以前のようにストリートカルチャーが上の構造に対してのカウンターカルチャーとして生まれたものではなくなってきたから。つまり時代の経過とともに縦のヒエラルキーを解体できるような構造がほとんど完成している状態に社会があるから。スーパーフラットとは村上隆の言葉だがそういう世界に間違いなくなってきた。

そうすると起こるストリートのPOP化。アングラとの比較の中でどこまで文化が押し上げられるか少し興味が湧かないだろうか。

そしていつか”ストリートカルチャーが上へと駆け上がる夢”というこの構造も崩壊することになるのか。ストリートが上を目指す構造ではなく、ストリートがストリートであり続けるための方法を探ること。これからの文化形成はどのように行われるべきなのだろうか。私の演じる目によって少しまた考えたいと思う。


また次回。



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