先日ストリートアートについて書きました。美術館やギャラリーから飛び出そうとするアート作品。でも結局、記録写真として美術館やギャラリーの中に帰ってきてしまう、そんな関係を話しました。
最初は美術館やギャラリーから飛び出そうとして作られた作品たちかもしれません。しかしよくよく考えると美術館の中に美術館の外で起こっているテーマを持ち込もうとした戦略だったのかも?と考えることもできそうです。
一方通行の視点ではきっと駄目です。何も見えてきません。
芸術は建物に守られています。それを忘れ自惚れている芸術家はいい作家とは言えるのか?建築家の偉大さを忘れては駄目なのです。
そしてそういった芸術家に限って必ず芸術とその他の分野を必要以上に分別しようとします。これは芸術じゃない!といったような。何をそんなに守ろうとしているのでしょうか。なぜ芸術か否かというフィルターをかける必要があるのか。きっと芸術というものが弱いものであることを彼らは知っているんですね。だからそれを隠そうとするんです。ここまできたら異常な程その弱さを隠してほしい。隠しきってほしい。
でも日本の建築みたいにその弱さを知っているからこそ、進める進化があるとも私は思ってます。
最近インスタグラムのコメント欄でよく見るメガキュアっていう商品があります。なんかこれストリートアートっぽく見えてくるのは私だけでしょうか。ストリートアートのようにサインを描きます。それは自分の存在を示すのか、自分の商品を示すのか、その違いだけでやっていることはそんな変わってないんじゃないかって感じがしています。
人が望んでもない場所に自分の活動の痕跡を残そうとする。
それは果たして薬となるか?毒となるか?そうPharmakonです。
別にどっちでもいいと思います。その行動が大事だったりすると思います。
そのような現象から何を読み取るのか?そんな今という場所について考えてみる。それが大切なんじゃないでしょうか。
そしたら今まで街の壁にグラフィティを描いてた人たちがFacebookやInstagramの個人の架空の壁にグラフィティを描き始めるかもしれません。いやもうこれは架空のものではない現代の壁だって、そういう主張が聞こえてきそうです。みんな芸術家にはなれるんですね。
そういえば村上隆さんが言ってました。漫画が描けるやつは漫画家になるし、デザインができるやつはデザイナーになる。それができない奴らが芸術家を自ら語ると。たしかそんな内容だったと思います。違ってたらすいません。
でも、スパーフラット後の自分の好きな芸術家ってみんなデザインもできるんです。村上隆さんも草間彌生さんもリチャード・プリンスも杉本博司さんも。やっぱできる人は何でもできるんだな。すごい!!!
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