個展を見に行くとそこには作品と呼ばれる絵画や彫刻、インスタレーションが並んでいます。ビデオや写真もあります。
この作品と呼ばれるものがどのように成り立っているのかちょっと考えてみたいと思います。
デュシャンの泉という作品があります。アンデパンダン展への出展を拒否された問題作です。アンデパンダン展というのは出展料を払えば誰でも展示のできる展示会です。彼はそのアンデパンダン展の委員を務めていましたがそれでも彼の作品は拒否されてしまいました。
男性用便器を倒してただサインしただけの作品です。
デュシャンは最終的にこの作品を紛失してしまいます。今私たちが見ている”泉”はそのレプリカです。
ではこのレプリカもしくはコピーされたものを作品と呼べるのでしょうか?レプリカやコピーに作品としての価値はあるのか?と言ったようなことです。
結論から言うと価値はあります。作品と呼べるのか、、、呼べるばずです。そしてその写真にも価値はあると言えます。しかしそれは見る価値、お金の価値とは異なる価値であると考えます。つまり考える価値があるかどうか、思考の、コンセプトの価値です。
ロバートスミッソンの作品にスパイラルジェッティという作品があります。湖に渦巻き状のアースワークを作った作品ですが私たちの知るスパイラルジェッティというのは空撮された写真ではないでしょうか。
ロバートスミッソンのコンセプトというのは美術館やギャラリーから作品が飛び出し、自然の中に置かれる作品、つまり自然とともに変化していくアートであり保存されるアートとは異なる性質を持つものであったはずです。しかし、私たちの知るスパイラルジェッティというのは空撮された記録としての写真でしっかり美術館やギャラリーに保存されています。
この作品はどこにありますか。湖にありますか、写真にありますか、直接田舎まで見に行くことがもっとも大切なことですか?と考えなくてはいけません。
この考えることが現代芸術の1つの重要なテーマだと考えるとデュジャンのレプリカにも価値はあると言えるのではないでしょうか。
このデュシャンのレプリカを見に行く理由はありますか。あるかもしれませんし、ないかもしれません、でもそのことについて考える価値は十分にあります。
赤瀬川原平さんの宇宙の缶詰を見に行く必要がありますか?見に行くより、自分で工作してみた方が新たな発見があるかもしれません。思考の中を大きな缶詰にぐるっと支配された気持ちになるかもしれません。それはクリスト&ジャン・クロードの梱包芸術でも同じことです。
河原温の日付絵画も同じです。見る価値がありますか?考える価値がありますか?想像する価値がありますか?
ということなのだと思います。
偽物か本物か?その本質を掴むことの難しさがあります。本物の価値と偽物の価値は違います。でもその価値の本質がすれ違ったり、入れ替わったり、相殺したりします。その状況を理解し、楽しむことは出来ませんか。パロディやオマージュ、パクりなどと言い方を変えることもできますがこの変換に価値はありますか。
お金の価値ではありません。
芸術のための芸術。
そして建築のための芸術。
芸術のための建築。
我々がただ我々自身の魂の中を覗き込むに委せるなら、まさにこの建築、この建築それ自身、建築でありそれ以外の何物でもないところのこの建築、「ただ建築のためだけに書かれた建築」よりも威厳のあり高貴な作品などはこの世界には存在せず存在し得ることもないことを我々は直ちに発見するであろう。
自分の性格の欠けている部分あるいは不完全な部分を塗りつぶし、まったく新しい顔を自分の自画像として額縁に入れようとする試みとしてのパフォーマンス。
ここに一つの矛盾が生じる。このパフォーマンスは内容よりも外観、本質よりも現象の方が
重要であると考えることができる。しかし、今まで描いてきたことと言えば考える価値が芸術の本質であるということ。が、、、
これを作品と作家の関係と書き換えてみる。作品は考える価値を、作家は印象、現象というイメージの問題へと思考を発展させる。そして作品と作家が一体となった時建築は建ち現れる。
私自身へのイメージが作品を記録し記憶する建築となりえないだろうか。
作家という印象、作品の意味を繋ぐパフォーマンス。
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