井田幸昌
恐ろしく器用にキャンバスに収まる。
そんな印象をもった。
違和感もなくすっと目に飛び込んでくる絵画。どことなく誰々風といってしまえるような作品がならんだ。芸術の流れの上に立つ人間とはこういう作家なのだろうとそう思った。王道なんだろうな。
僕の目に飛び込んでくる作品たちはとても清潔に淡白に目に飛び込んでくる。違和感やノイズのようなものが一切ない。だからあれ?ってなる。現代アートでは滅多に経験することのないような経験。抽象と具体の間で遊んでいるような感覚。ここは一体なんなのだろう。
建築的な感覚で捉えてそんな印象。日本の建築のように境界線の見えない絵画。どこの部屋に置かれてもおかしくない。特異性があるようで実はない。建築で言えば森山邸のような空間の絵。なにがどう置き換えられても実はそんなに違和感がない。革新的な作りなのかもしれない。しかし実際生きるのはすごく大変。そんな若さのようなものを感じた。
きっと彼は大きくなる。SANAAや藤本壮介のように。でもどこか寂しい。そして悲しい。
自分と建築と芸術
展示を見ること。そして作家のバックグランドを見ること。それを意識的に自分自身やってみたいなと思った。あまりに器用すぎた作品をみたからかな?自分の作品とは一体なんなのだろうとそんなことを考える。
僕の建築はストリート。
僕の建築は今までの建築の形とは違う。僕はすごく単純化してみせるし、建築の原初を突き止めようとする。だから一般的には建築になる前で成長を止めてしまったかのように見られる。未熟な未完の建築に見える。それどころか僕の作品が建築として見られないことだってある。何かのインスタレーションのように扱われる。それはつまり建築と芸術の中間に位置するインスタレーション。でもきっと落ち着くところはここではない。僕は美術館やギャラリーに帰属することを望まない。美術館やギャラリーはスペースであってホームではない。僕のホーム、僕の作品のホームは紛れもなく建築。芸術という制度に守られ、建築という枠に守られるような作品ではない。
僕らのストリートは建築。
そんなことを言いたい。建築とは地図。宇宙の缶詰のように地図が反転する。つまりルビンの壺。今の建築は壺のことを言う。そして多くの建築家は内部空間の重要性を口にする。壺の作り方を語る。そこには法律がある。図面を描く。
僕が学んできた建築はストリート。つまり外から建築を学んだ。建築の内側(壺)で学んだ訳ではない。僕の建築は壺を作る方法論ではない。必要なのはそのための図面ではない。僕の建築は向き合う人を描くこと。壺(建物)は世界中に溢れている。でもそこでの関係性を描くことは?
壺を作ること。
僕はちょっと壺の中に入ってすぐ出てきてしまった。そこは変化についていけないことが多い。ちょっと閉鎖的な場所。かなりアカデミックな世界。それは図書館見たいな場所だった。静かでちょっと臭い。少し外にでればすごく大きな建築が見えた。背中にはとても小さな建築が一つだけあった。僕の生きる場所はこの大きな入りくねったストリートだとそう思った。
気づけばたくさんの壺があった。いろんな素材、いろんな色、いろんな形。どれも魅力的だけど向き合う二人には形が与えられていなかった。だから壺が台無しになってしまう。それが今の建築家の仕事だと僕は見ている。僕の建築は向き合う人を描くこと。するとそこに自然と壺ができることに気づいた。ただそれだけの話。
続きはまたどこかで。
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