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執筆者の写真Gaku Sakura

作品を紐解いてみる。現代建築作家


現代建築作家、ギルバート&ジョージ一人二役的な話を以前しました。

自分がリビングスカルプチャ。そしてリビングルームスカルプチャ的な役割の作品たち。それは建築を中心にハイパーフラットな場を作り出すための……

といったような。料理もダンスもその他の作品もすべては建築であるわけです。

私達が学生の時はみんな口を揃えて「内と外の曖昧な関係をつくる」なんてことをよく言っていました。後はシームレスとかって言葉もよくでてくるキーワードでした。もうプレゼンの時には耳にたこができるくらい聞く訳です。

今の建築学生のキーワードは一体何なのでしょうか?いつか大学からとか招待されて学生の作品見れるようになれたらいいなと思います。未来の建築家たちは今何に興味があるのでしょうか?

後、建築学科の審査員ってなんでいつも建築家なのでしょうか?

学生の時にはよく思ってました。「こんな建築家に俺の作品を理解されてたまるか。いつも建物の話じゃん。どっかで見たことある建物ばっかり作りやがって。」って。尖ってました、学生の時は。デコンの建築がたくさん生まれた時代でしたからね。形を求めるとどうしても過激なものが魅力的に見えるわけです。それも今では見飽きてるわけですが……でもそんな提案を追求しなくなるとみんなユニクロ的建物に見えるようになります。

そしたらやっぱり建築学科って面白くは見えないですよね。卒制展とかいっても建築学科の場所って人気ないです。

だったら他の学科でものづくりした方が楽しそうに見える。建築学科以外の場所。そこには建築学科に無い変なリアリティがある訳です。かなり現実的なユニクロ建物を提案している建築学科は逆にリアリティがないんです。不思議ですよね。きっと行って見れば私が言っている意味がわかるはずです。

理由は色々あります。それはまた今度書きます。

ってことで曖昧な関係についてです。


これはロバート・ラウシェンバーグのモノグラムっていう作品です。コンバイン・ペインティングって言われています。写真などの平面的なコラージュをより立体的に拡張した作品です。平面といってもそこには立体的な物理的厚みがあるので台座のように見えます。絵画って平面の様で実は立体です。キャンバスの厚さは無視できないのです。

そしたら絵画は床に置いたらデコレーションされた台座に見えてしまうわけです。展示の方法で見方が変わってしまう。そこが面白かったりします。建築的ですね。敷地に何をどう置くのかが重要なわけです。


そしてこれはカール・アンドレの作品。人が上に乗ることができる彫刻作品です。

誰でも作れそうと言われればそれで終了です。でもここではちょっとこの先を考えます。まず乗ることができる彫刻作品ってあんまり見たこと無いですよね。しかも真上から見れる彫刻作品です。すると今までの彫刻とは違った楽しみ方ができそうです。上のコンバイン・ペインティングの剥製の山羊が人に置き換えられるようなイメージです。すると自分たちも彫刻の一部になる訳です。すると舞台セット的にも見えます。でもこれを壁に飾ったらそれは絵画になるのかな?それは手で触れることができるもので……って。するとその関係性ってすごく曖昧なものになります。絵画なのか、彫刻なのか、建築なのか、舞台セットなのか。

建築学生が言う「建物の内と外の関係を曖昧にする」。それがもし実現したとしてそれは本当に価値ある空間なのかってことを議論しなくてはいけないようです。ただ気持ちいいだろうとか……そいういう感覚的ではない議論が建築学科には必要だなと思います。


私の作品は木製パネルの裏側を使用します。芸術と建築は表裏一体なわけです。画家が絵の裏にサインする行為は建築ですよって。そこに玉砂利を使った庭を作る訳です。そして現代建築作家はパネルの表に名前を書きます。これは果たして絵画になりえますか?そんなスタンスです。

またこの作品壁にかければ絵画になるのかなって。すると玉砂利は床に落ちちゃうな、って。いや展示の裏と表を変えて、自分のサインを見せて玉砂利を壁に挟めば絵画になるのかなって。

いやいや室内庭園な訳です。しかも移動可能な。いや彫刻だろ?カールアンドレ的な。いやいや、これ鉄じゃないですよ。絵を描くための木性のパネルですよ。しかも歩くことで玉砂利の見せる表情変わりますしって、それインスタレーションってこと?って。

建築とその周りの関係は曖昧に見えるわけです。

日本で建築というのはハイパーフラットな場にあるべきものです。

          Writing Architecture 25より


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