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執筆者の写真Gaku Sakura

作品を紐解く2 現代建築作家


雨だし寒いし、結構こういう時はきついわけです。バファリンが必要になります。バファリンを卒業することはできるのか?バファリンこそ私のノン・フィジカル・エンヴァイラメンタル・コントロール・キットです。w

昨夜は遅くまで作業してました。寝るタイミングを一回逃すと目が冴えます。そしたらもう朝の4時とかになってて。「コンペでもやるか!」って。てことで「大きさの住宅」参戦しようと思います。

自分の記憶が正しければ、建築の教科書にクリスト・アンド・ジャンヌ=クロードって載ってたような気がします。もう何年も前のことなので確かではありませんが。


こういう作品です。なんでも梱包しちゃうんですね。建物でも梱包しちゃいます。「じゃ次は何を梱包するのか?」ここまできたらなんでもやっちゃいそうですよね。もうきりがありません。ってことで裏をかく作品がこちら。


赤瀬川原平さんの作品。ハイレッドセンターです。蟹缶の中身を取り出してラベルをきれいに剥がして、内側の面に再度貼付ける。最期は蓋をきれいに溶接して元通り。完成です。っていう作品です。内側は蟹缶の情報で溢れるわけです。逆に言えばもうそれしかないわけですが。地球をそのまま反転させてしまったわけです。でも中にあったはずの蟹との関係性が見えてきません。それはここではもう重要ではなくなっちゃってるのかな?ちょっと考えなくちゃいけないようです。そう、ここを考えるのが建築です。

で、今考えられることはまず上の写真がまずいということです。多分左側の缶詰だけであったらこれでいいと思います。でも右の缶詰を開けた写真が事をややこしくさせています。開けた、取り出したという行為が見える訳です。そしたら最期は蟹で缶詰包むべきじゃないの?ってそうなります。


でこれ。ジョセフ・コスースの「1つと3つの椅子」という作品。詳しい作品の説明は今度しますが、様はコンセプトと作品の間に無駄な情報が付け加えられたりすると作品の内容が大きく変わってしまうということです。

そこが芸術と建築の面白いところです。全体と部分、両方を見ないといけません。神は細部に宿るのですが細部にこだわっても全体が駄目なら元も子もないわけです。現代の細部はハイパーフラット。自分たちの手が簡単に届く場所ではない、そんな場所が神の宿る細部なのかもしれません。

建築学生が見せるどれも大差ない大量の模型たち。それはクライアントを惑わせる。この人、自分の作る建築に自信がないんじゃないかって。もちろんそうでない場合もある訳ですが、最期は一つに絞らなくてはいけません。結局、その大量の模型を見せるのか見せないのか、そういうことだと思います。

大量の模型と建築の善し悪しは=ではないはずです。私これだけ考えましたと私これだけ迷いましたは=ではありません。

          Writing Architecture 17 Writing Architecture 19より


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