建築の内外の関係性には色んな見解があると思いますが、私の考え方は非常にシンプルです。まず必要なのは外的建築の魅力です。それは建築に限った話しではありません。人でもモノでもコトでもすべてがそれに当てはまると考えています。
簡単な話し、本当の内的魅力を内的に留めておくことは不可能だと考えます。内的な話しをすることは面白くありません。なぜならそれは内的だけに属するもので影響の無いもので留まっているからです。それでは意味がありません。
建築家でもそうですが、内的な話しをする人を信用することはできません。それは建築逃避行です。私たちは光と影の正解を知っているでしょうか。私達は機能の正解を知っているでしょうか。もしその答えが分からないのであるならば、必然的に建築家は未開の地を望むようになります。答えの無いものに対する(光や影)研究はもはや逃避行でしかありません。そんな内的建築はそれを他者、批評家からの評価で成立させることでしか役割を果せません。それは宙ぶらりんの状態を楽しむことができます。無価値ではないです。しかし、建築家としてはどうなのでしょうか。それは建築家の特権ではなく、使用者の特権です。それを初めから建築家の功績にしては駄目です。内的な建築を語り、必要以上に内的に留め、批判を最小限に抑えているようにしか感じません。リスクを最小限にし、仕事を得るのはあまり知的なこととは思いません。
人はまず建築の何処に立つでしょうか。初めから建築の内にいることは不可能です。必ず外側に人はいます。つまり建築には広告が必要になるし、CM、台本、ファッション、音楽が必要になります。その様な構成の中にしか建築はありません。
内的な構成は表舞台にいずれ立たなくてはなりません。
それは、エピローグやモノローグ、プロローグの様なものです。舞台セットかもしれませんし、照明なのかもしれません。それは4分33秒のようなものの可能性もあります。それを内的に留めておくことの方が不可能であると思います。
つまり建築にとって重要なものはすぐそこにあるものです。そしてそれはすぐに見える印象であり、雰囲気であり、特徴であると思います。
例えば……
こういうことだと私は思います。
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