展示についてちょっと自分の考えを描こうと思います。
SDレビュー、GAギャラリー、ギャラ間と3つの展示を見ましたが少し展示に違和感を覚えました。建築家によってそのスタンスが異なるのは当然なのですが建築を根本的場所から考え直さなくてはいけない、そう思いました。
建築家としての考え方、この場所にこれは必要か?この場所に適切なモノコトとは?とモノコトと場所の適正というのは少なからず意識します。しかし、この3つの展示はどうだったでしょうか。
GAやSDレビューの模型のボリュームや配置は適正であったでしょうか。スクリーンやプレボと文字やイメージとのバランスは整っていたでしょうか。
きっと場所性をないがしろにしてしまった、そんな印象を受けました。建築展とは何を目的としての展示なのか、見失うことになりそうです。そしてそんな建築家たちの仕事をみて学生たちは何をこの日本建築に学ぶのでしょうか。
例えば建設されている建築、建設途中の建築を作品と呼びます。では展示される場にある模型や図面は一体なんと呼べばよいでしょうか。ただの資料でしょうか。それを人に紹介する。見せるという行為にこの模型や図面はどのように反応するのでしょうか。ギャラ間での藤村さんの展示は明らかにこの点を意識されていたように思います。文字のサイズと空間のサイズと映像のサイズが整い、その状況を建築すると言ったような。つまり見せるという意識が展示に働くかどうか、これは建築家の作家性を問うものです。建築家とは何を建てる人たちのことでしょうか?
建築が工学に偏るのは現在の日本の環境では仕方のないことなのかもしれません。しかし、ここで改めて日本建築の芸術性、デザイン性の重要性を問いたいと思います。
現在、日本建築では建築周辺の環境作りを建築するという少し複雑な構造があります。建物のデザインをするというより、植栽を植え、本棚や本を配置する。プライザーを配置する。
これで簡単に空間らしさを獲得できることを私たちは漫画やアニメ、レゴブロックやシルバニアファミリーでいつの間にか習得してしまっています。それは建物を建てる建築家という存在の否定をしその周辺の環境を建築することで建築性を得るという、脱構築の建築家像です。
建物の芸術性やデザイン性を拒絶し、自然や本や棚という要素を持ち込み建物らしさを獲得する建築なのです。これは工学的日本建築が産んだ建築の芸術性となって理解されます。しかしこの芸術性が芸術かどうかは疑うべきです。つまり彼らは放棄したのです。意識的な状況ではありません。雰囲気を獲得するための方法として選択しています。それはコンセプチュアルでもなんでもありません。またここにもの派やアプロプリエーションを捉えることも可能です。自然にあるもの身近にあるものを取り入れて芸術性を獲得していく、と言ったような、、、最大の問題点は彼らの展示の記憶が時間の経過とともの曖昧になっていくことです。そして建設が完了してしまえば記憶は建物へと移行します。その時彼らの目指した建築は忘れ去られてしまい、放棄したはずの建物だけが輪郭となって残り続けます。彼らはこの現象を楽しんでいるようにも思います。レゴの人形を使って遊ぶよかのように。
私は思います。彼らが雰囲気で楽しんでいることに本気で取り組みそこに芸術を生み出してみてはどうかと。彼らは模型に様々なものを散りばめます。絵、人、洗濯物、料理、自然。空気感を出せるものであればなんでもありです。ここに必然性や芸術の文脈を持ち込むことで記憶と記録を建てることは可能でしょうか。そしてそれが完成された建物の中でも機能し続けることを試みます。その相互で移動する絵画や彫刻はさらなる流動性を得ることになります。それは結果的に建築の流動性を得ることに繋がるのではないでしょうか。
3つの展示で思ったこと、でした。
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