お金の話が嫌いだ。人の奢った、奢られたそんな話は中身がない。コリドー街にナンパしに行く男性もされに行く女性もあんまり理解ができない。
この場所だったら皆んなやってるから平気。そこに浮つくのはかっこよくない。
"みんながやってるから精神"
ナンパが目的ではない女性もいることを知った。食事を奢ってもらうためのナンパは仮の姿。すごい考えの女性たちもいるんだなとそう思った。
そう考えたらキャバ嬢の方が魅力的だなと思った。
姿形、ファッション、包み隠さず一つの仕事として。
内側で何考えているかわからなくなってしまう女性。
僕とは環境が違うのだろうか。
正直、萎えた。
芸術家は貧乏でなければならない、という日本の考え方も好きではない。どうしようもなく、ただただ納得できないことが増えていく、そんな感覚になること少なくないです。
お金に対する考え方は人を区別する建築である気がしています。
奢られることが当たり前な女性。
ねだる女性。ねだりがしつこい女性。
財布を出す気すらない女性。
そんな時、この女性と自分との関係を問います。
上司なのか、友達なのか、恋愛対象なのか、人妻なのか、後輩なのか、赤の他人なのか。
どんな関係であったとしてもお金を払うポーズくらいは見せてほしい。そう願います。
それは人と付き合うためのパフォーマンスなのかもしれません。
あなたの財布の中身は興味ない。興味があるのはあなたの目に映る私。
お互いの立ち位置、その間にあるのは壁ですか、襖ですか、障子ですか、硝子ですか。
体が触れ合う距離にはいません。触れる距離にはいたくありません。
コリドー街に度々出没するらしい女性との話。ここはコリドー街ではないし、僕がナンパしたわけでもありません。興味もありません。僕、誘われたら基本断ることはしません。大概のことが無い限り。あなたは場所と人を間違えてしまったようです。
僕はキャバ嬢の子とお話したほうが楽しかったです。言葉も姿勢も、この女性より美しいと感じてしまいました。
そして普段の言葉遣いが非常に汚いと知ってしまった時点でこの建築はすぐさま崩壊していきました。
バンクシーの作品が再び注目を浴びています。オークションにかけられた作品が落札された瞬間にシュレッダーで裁断されました。
もともとの作品タイトルは「少女と風船」。裁断後の作品タイトルは「愛はゴミ箱の中に」です。「少女と風船」は約1億5千万で落札されました。新たに生まれ変わった作品は一体どれくらいの値段に生まれ変わるのでしょうか。
これは破壊ですか。制作ですか。作品のこれからを想像できるこういうパフォーマンスはいいなと思います。愛はゴミ箱の中に。
ゴミ箱の中にも価値を発見できるかもしれません。
つまらないお金という価値を一旦ゴミ箱に捨てるパフォーマンスだったのかも。オークション会場で行われたその場所性を考えるとそう理解しても良さそうです。
そのゴミ箱の中に愛があるわけだから、、、
私はお金を愛しているというメッセージなのか。
それとも以前の作品を愛していた。生まれ変わった作品は、、、それでも価値は上がるだろう、、、といったことなのか。
芸術の世界では度々作品の価値は別の価値に変容する。価値のトランスフォーメーション。
解釈は様々ですが話題性というものが価値に大きく寄与することは間違いありません。
作品とは一体なんのためにあるのか。もうそういう言説では芸術自体が機能しなくなってきているのかもしれません。
つまらない建築が豊かになる方法は限られます。芸術を扱うか、家具を扱うか、ファッションを扱うか、、、つまり建築の周辺の魅力をいかに取り入れることができるかです。
日本の建築家はこの状況をよしとします。どんどん取り入れていきます。
建築家としての仕事に線引きをします。自分はここまで。
そこが僕の一番嫌いな、納得のいかないところです。
彼らはつまらない建物を作ります。あとは既存のものでパッチワークするかのように仕事を進めて建築を偽ろうとします。魅力的な空間を他者が作った製品、作品で誤魔化すわけです。それは非常に手間の省けた楽な建築風の建物です。
なぜ彼らは自らの建築に表現を省いてしまうのでしょうか。
答えは簡単です。できないのです。そう言い切ってもいいのではないでしょうか。
建築家は常に芸術と共闘していなければなりません。それ以外はやはり建物で終わってしまうのです。
フランクゲーリー、ザハ、SANAA、ヘルツォーク&ドムーロン、OMA。やはり違うわけです。
なぜ建築家は壁画を構想しないのですか。なぜ彫刻を構想しないのですか。必要ありませんか。否、必要あるはずです。機能という建物が最大の賛辞を持って迎えられることはありますか。絶対にありません。なぜならそれは誰にでも簡単に複製可能な内容だからです。
芸術とお金は二個一です。しかし芸術はお金では買えないものです。お金は芸術の材料にはなります。その逆もありえます。それは一つのアクセントとなります。それが芸術の錬金術なのです。同じであることを嫌います。"みんながやってるから精神"は足枷となります。
紙幣に絵がなくなったとします。キャッシュレスが進めば現実的な話です。
そうすると芸術に絵は必要なくなるかもしれません。芸術家は描く理由を失うかもしれません。錬金術が崩壊してしまいます。
すると今まで隠していた事実を隠す必要がなくなります。
新たな描く理由を求めます。それは価値への問いかけです。
だれが絵を拾わなくてはなりませんか。建築家であると思います。
お金や絵画を物理的に蓄える必要性が失われたら、そのものの存在はどうなりますか。
これは価値の話。スタイルの話。
絵画に価値を見出す理由はなんですか?
投資目的かもしれません。でも紙幣のように不要になってしまったら?
絵画がほしいと思う時はどんな時ですか?
引っ越ししたからではありませんか。
大きな殺風景な壁を覆うためではありませんか。
それでは単純すぎますか?
単純ではないはずです。
大きな建物。建築家はここに絵を書き建築を完成させます。
建物全体に書く必要はありません。考える価値のためにです。
ロバートスミッソンは地球にスパイラルジェッティを作りました。
地球というキャンバスからしてみればそれはとても小さな作品です。
建物を一つの地球に例えます。一つの小さな絵画で十分なはずです。
何を書きますか。
それが建築家の手続きになります。
"そこ"に何もない建物はただの建物です。
絵は建築のエレメントとなり得ます。
もちろんこれは一つの方法で全てではありません。
造形もそうですが、建築たる所以を説明できますか。
それは建物の話ではありませんか。
ここには少なからず彫刻の話を持ち込むべきです。
SANAAもザハもゲーリーも彫刻作品の所為が見え隠れしませんか。
求めるのはBuildingではなくArchitectureの話です。
建築としての価値はどこにありますか。
新建築ではなく新建物になっていませんか?
いや、新建築は新建築です。中に掲載されている建物は新建物であることが多いですが、、、
未来はどうなるでしょうか。
画家はいなくなりませんが、描く理由を大きく変更しなければなりません。それは保存、記録、蓄えるためのものではなくなる可能性があります。誰が拾いますか。建築家です。
歴史は未来に何を残すのでしょうか。
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