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執筆者の写真Gaku Sakura

建築と脱着。

地震



3月16日。

熊本地震から6年という月日がいつの間にか経っていました。

人生の節目はいつも大きな地震が起こる、そんな不思議な人生です。


公園に布団を敷いて星を眺めながら寝たことを思い出しました。みんな家から飛び出し小学校の運動場に車を停めて寝泊りしました。それはキャンプという建築の一時的な姿だったように思います。ここで言うキャンプという言葉は野営、テント生活、軍隊生活、陣営、といった言葉の意味です。

そしてそこには間違いなくスーザン・ソンタグの言うような様式的なキャンプも含まれていたように思います。

スーザン・ソンタグの言う「キャンプ」を支えるのは「不自然なもの・人工的なもの・誇張されたもの」に引きつけられる感受性です。それは劇場で振り当てられた役割を演じるような感覚を日常生活にも持ち込む姿勢で、そうした姿勢の現れたさまざまな芸術・表象を、ソンタグは「キャンプ」と呼びました。

私が経験した地震はまさにそんな「不自然なもの・人工的なもの・誇張されたもの」でした。その大きな揺れも、地鳴りも、建物が軋む音も、です。

そして多くの建築には巨大な亀裂が生じました。地震という自然の現象がここまで不自然なものに感じたことは今まで一度もありませんでした。

私のパフォーマンスの始まりはまさしく"ここ"です。それは人為的に始められたものというよりもいつの間にか勝手に始まった終わりの見えないパフォーマンスです。これは自然の不自然さが生み出した奇形のパフォーマンスであると言えると思います。


私が知っている地震は終わりのないものです。揺れは必ずおさまります。しかし地震の経験は終わりません。建物がそれを記憶します。道路がそれを記憶します。私たちの環境すべてがそれを記憶をします。後は絆創膏を貼るようにそこに補修が行われます。それはやはり「不自然なもの・人工的なもの・誇張されたもの」でしかありません。そんな絆創膏を見て私のパフォーマンスが終わることは二度とないんだなとそんなことを思います。

こんなパフォーマンスは始めるべきではなかったのかもしれません。そもそも始めたくもなかった、そんな気がします。それでも始まってしまったキャンプが私にとっての表現なんだと気がついた時、目の前の建物は建築のそれとは大きく異なるものに見えました。


私はパフォーマンスの一環として踊ることがあります。それはSNSにアップされることになるのですがその経験は日常と非日常の狭間に身を置くパフォーマンスです。本来は人に見られることがないはずの環境と動作が不特定多数の人に公開されます。その行為を空間と私自身の身体の表現としてのアフォーダンスと呼ぶことができるのかもしれません。これは空白と動作のアフォーダンスです。

そこにはどんな意味が含まれるのでしょうか。例えば空間を作り出す行為の可能性についてです。建築に関わる人間の空間創出の方法は壁床天井を構成することになるでしょう。しかしその可能性が限りあるものだと理解するのは容易く、その発展もモダニズムの時期に出尽くしていた感があります。結局のところ建築家が作り出す空間というものは空間の枠にとどまりその主題は空白であり続けました。この空白が忘却という形で現れているのが現代の建築なのかもしれないと感じることがあります。空間を建築する方法に意味を見出す姿形を示したいとパフォーマンスをします。




料理とファッションとダンスと芸術。そしてそれから。。

ある時自分の活動の納まる枠を探し始めました。それを肩書きと呼べば簡単に済むのですがその肩書きを一つにまとめることすらなかなかできませんでした。料理人、デザイナー、ダンサー、アーティスト、アーキテクト。ここに私が目指す仕事の形があります。それは枠そのものを脱構築していく建築家の作業のようでもあります。その枠は広がるばかりでなく縮小したり再び解体されたりもします。私はその過程の中で残る痕跡のことを作品と呼んだりします。結局私の仕事はどこか掴みどころのないものになってしまいます。


料理の仕事をする私のことを料理人とは誰も呼びません。

ジュエリーの仕事をする私のことをデザイナーだとは誰も呼びません。

ダンスの仕事をする私のことをダンサーだとは誰も呼びません。

アートの仕事をする私のことをアーティストだとは誰も呼びません。

建築の仕事をする私のことをアーキテクトだとは誰も呼びません。


それは私が空間に属する演者であるからだと思います。

空間という空と空の間に存在する、それを意識した(パフォーマンスする)私がいるからです。何かに偏ることを避けようとします。それは今ある仕事という枠が地球の環境に順応できるようなものではなくなってきているという確信があるからです。地震が起こり、戦争が起こり現実と仮想空間のヒエラルキーが解体しました。そこにある不安な要素を排除しようと試みますが非常に困難です。環境が大きく変化していく日々の中で自分の選択肢は脱構築されていくべきであると私は思います。


建物の解体、破壊

戦争という時代遅れの現象が起こっています。これが歴史的政治のあり方であると理解します。そしてそこには巨額のお金が動くということを私たちは知っています。建築家はここにすかさず働きかけることになるでしょう。それは武器商人の背中を追うようにです。建物が兵器によって破壊され建築家はそれを修復します。そこに政治を見ることもできるでしょう。戦争が終われば何かのモニュメントが作られ、その歴史を展示する建物を作りその一連の流れに区切りを打とうします。そのような建物の破壊と構築を繰り返す中で建築は歴史を重ねてきました。建物を作るということは一つの終わりを意味します。それは逃れることのできない事実です。作ればそれは死に向かいます。そして戦争が終わるのも地震が終わるのも建物を作ることでその出来事を終わらそうとするのです。それは新しい環境に塗り替える上書きによって真相を覆い隠してしまいます。

そのようにして出来た新しい環境に私たちはもう一度立ち上がろうとします。そして新しい未来を思い描きます。そのようなシナリオが予め理解することができた時、建物との繋がりを、関わりを見直そうと思うのは自然なことだと思います。


今では建築は仮想に向かおうとしています。しかし仮想空間という場が本当に価値ある場所なのかと言われるとそれは一過性のものであるという印象が強いです。それはなぜかというと仮想空間が資本主義の究極を行こうとしているその経済活動の中で文化や歴史が入り込める余地があまりないからです。そしてこの空間を理解すればするほどお金の価値の解体が起こることが想像できます。お金の価値がすり替えられているように見せかける仮想空間がなくなる日、お金がどこにどのような形で集まっているのかを理解することは容易いのではないでしょうか。そこでの仮想空間はテーマパークのようなものでそのテーマパークでしか使えないお金がある、両替する必要があるという場の構築、カラクリがあります。テーマパークなのでお金のリスクマネジメントを促す必要はありません。夢や希望を与える代わりの対価として円やドルやユーロがあるのは実は変わっていません。仮想空間と仮想通貨、似ているようでその質は大きく異なります。テーマパークと生きる生活が綺麗にマッチングすることなどありえません。


私たちの意識は仮想に向かいつつあります。それはいいことです。しかし仮想を仮想のままにしておくのはそれはやはりテレビゲームであってテーマパークなのです。それはある種の現実逃避のようなものです。課金するゲームのそれであって、入場料と割高な飲食代を、舞台セットとパフォーマンスの幻想に支払うシステムと変わりはありません。仮想空間はギバーとテイカー2つが綺麗に分かれます。マッチャーの役割を担うのが仮想空間です。ここに新しい関係を作り出すことは難易度が高いように思えます。


仮想建築と仮装建築

文化的価値というとそれは少し時代遅れの遺産のようなものだと理解されたりするかもしれません。生きることと価値の間で育まれる歴史としての文化は現代には少し不慣れなものとして隔離されます。もし仮想という場に可能性を見出すのならばこれら文化的価値の保存や記録という部分です。形のない物に価値を見出すことは素晴らしいことです。お金も芸術もファッションも形がなくてもいいのかもしれません。見るという経験による情報の氾濫に身体的な経験は鈍っていくような感覚があるのは確かな事実です。そのような意味では目に見えるものは何かの本質を遠ざけているようでもあります。それがいま仮想空間の中で起こっていることなのかもしれません。

結局のところこの仮想空間の見る聞くという体験だけでは私たちの生きる理想の場所にはなり得ません。この場は実験の場であり続けるべきで成熟したモノが居座る場所ではきっとないのでしょう。

仮想空間に期待をするのは失敗がただの失敗ではなくなり、そこに新たな価値基準が生まれることです。


仮想空間と仮装空間は非常に関係性の深い物語を作りそうだなと私自身は考えています。イメージとしての仮の姿が仮想空間にあるとします。それを現実の世界に持ち運び出そうとした時それは仮装した空間として建築の歴史をドレスアップします。そこにはアンビルドという建築の歴史が文脈となります。デコンストラクションやアーキグラムやスーパースタジオのそれとリンクさせることはすぐさまできるはずです。これからの建築のテーマは仮装するものになるかもしれません。時間を跳躍し、あらゆる制限が解除され、重さや軽さの概念が吹き飛ぶかもしれません。と、ここまでくればそれは妄想となってしまいますがそのような未来が仮想空間を軸に起こってくるのかもしれません。


きっと建物のデザインも飛躍することになるのでしょう。それに応じるようにファッションのあり方も生活のあり方もすべてが変わるでしょう。建築とはその礎になります。

触れるものをどのように理解するべきでしょうか。香るものをどのように理解するべきでしょうか。味あるものをどのように理解するべきでしょうか。

きっと今まで以上にセンシティブな問題になってくると思われます。ここで考えなくてはいけないのが仮想が視覚を頼りとして仮装がその他の感覚を補う建築のあり方、です。

私は今、私の進むべきパフォーマンスの未来を想像しています。



建築とバイク

実は注目している関係であるのが建築とバイクです。私の身体はかなり鈍感にできているようであらゆる現象は意識されることなく通り過ぎていきます。音はただそこに佇んでいるように思われて移動をしていることに気がつくことはありませんでした。そしてその音がどれほどの力を持って空間を満たすのかを私は知りませんでした。私の身体は空気の影響をもろに受けるようで気温のそれはあまり当てにならないということを知りました。歩いている時と踊っている時とバイクに乗っている時とではその気温という数字はまったくというほど当てにはなりませんでした。

バイクという身体的危険性が私の感覚を鋭敏なものにしていることに気がつきました。バイクから鳴る異音に、都市に響き渡る生活の音に。気温と気候と太陽の移り変わりが生活空間に与える表情を知りました。その表情は決して視覚では捉えることができません。

都市の空間のシークエンスが崩壊することを知りました。匂いと香りがぶつかる瞬間です。そのような環境に触れた時、気づいた時私たちの舌は豊かになるようです。


このような身体的変化がバイクを通じて起こりました。この経験はきっと建築にも生きるはずです。そんな日々のパフォーマンスを通じて建築の発展に携わっていけたらなとそんなことを今考えています。






と最近考えていることを少しだけ文字にしてみました。




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