モダニズム以後の建築は装飾から手を引いた、もしくはその様に見える。装飾は罪悪である、なんて言葉もある建築学。
学生のみなさん、楽しないでください。
建築とは文化そのものである。
女性が土俵に上がることが禁じられている?そんな馬鹿げた話しがあるのか?そんな相撲が国技とは?
中央集権的である。
もう辞めちゃえば?
面白くないよ。建築と一緒じゃん。
建築には装飾が必要だ。
建築家としての経歴。
クライアントの富。
地位、権力、知名度。
なのに建物には最小限の装飾で抑えようとする。
レスイズモア。
ドラクエの呪文みたい。
装飾性を維持しようと造形への探求心が始まる。そこで建築を維持しようとする。が、その状況も中途半端か……日本の建築。
学生の課題、彼らは装飾を排除したわけではない。
彼らは装飾、彫刻を教わらない。
モノは分かる。しかし作り方は分からない。その意味、コトを知らない。
だからオーナメントという選択肢はない。
「あなたの作り出すカタチには意味があるように見えます。そしてそれをしっかりと説明してくれます。しかしそれは本当に豊かですか。意味とは後から付け加えられるものであってもいいと思います。」
先生からはこれの意味は?必要なの?そんな質問を投げかけられるでしょう。
「必要なものを作るのは私の仕事ではありません。それは誰にでも習得可能な仕事ですから。AIでも構いません。無駄に見えるモノ、コトを作り続けなくてはいけません。そこに意味の発見があります。発見が無ければ学習もありません。」
建築は装飾が面倒だった。装飾には金がかかる。装飾には時間がかかる。装飾にはセンスがいる。ただそれだけです。
「学生に教える?えっ、私装飾を教えてもらったことありません。なので教え方がわかりません」
違いがわかるでしょう?
国技としての役割、立ち振る舞いを失えばイリュージョンは解ける。
建築も一緒。イリュージョンを維持するのも建築家の立派な仕事。
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