昨日は親友の家族が銀座の店に遊びにきてくれました。料理を出すことの緊張感を味わうことになるのですが、、、久しぶりの空気感が新鮮でたまにはこういうのもいいもんだなと、そう思いました。
久しぶりにおばちゃんと話すのに、なんかいつもすぐ近くにいる感覚で話してました。
ホッとしました。
ありがとう。
と最近興味の湧いた場所や展覧会にはなるべく足を運ぶようにしています。自分の感覚だけで次の展示をするのは危険だなと。日本建築の今を見ることで今後どう編集するべきなのか
見えてくればいいが、、、
私が大学を卒業した年あたりから完全に日本の建築は迷走し始めた。そんな印象を持っている。東日本大震災の直後。そのころ世界ではデコンストラクションな建築が建物にディストーション的効果を与え鮮烈な印象を与えていた。ゲーリー、ザハ、リベスキンド、ヒンメルブラウ、、、建物のディストーションの効果は被災した日本にとって恐怖だったのか?多分違う。
経済的な話、建設の話、建築の話、様々な要因があげられはするもののどこかしっくりこない、そんな印象。一つだけ言えることは日本の建築家はそれを避けた、というより出来なかったという印象の方が強い。
伊東さんの台中国家歌劇院もどこか最初の期待とは裏腹に微妙な建築になってしまった。そこからのみんなの家。完全に迷走を始めてしまった。日本建築を象徴するかのようだ。安心感というより迷走に見えるバカでかい柱の連続がそれを象徴していた。建築の話は完全に忘れ去られていたようだった。それは建物の話だった。それは被害の痕跡だったか。
今日本の建築家は海外のプロジェクトでことごとくコケている、そんな印象を受ける。というより海外の建築家と比べると、と言ったほうがいいだろうか。
隈さんのヴィクトリア&アルバート・ミュージアム ダンディも画像で見た限りダメだ。
平田晃久さんも注目はしているがカタチをつくることはちょっと苦手そうな印象がある。
藤本壮介さんは最初のプロジェクトからの飛躍がなく、単調な連続性を保持し続けているように思う。というよりスタッフの藤本壮介像がそうさせているようにも感じてしまうのだけど。これは余談。
となるとあまり好きではないのだけど石上純也さんくらいだろうか。戦えそうな建築家は。
と描いてはみるものの、やる気がなくなってきた。
建築家と勝負をしてもしょうがない。
俺は負けねーぞ、って意気込みで制作取り掛かろうとするけど。なんか全然見てる方向が違うので???ってなる。
それに建築の捉え方がだいぶ違う気がしてきている。自分が暴走してる、とも言えるのだけど。つまらなさすぎて、単調すぎて、そんな建築ならなくなっても構わないとも思ってる。なぜか?建築がなくなったとしても建物は作られ続けるので、、、
思考も思想もないものはただの建物と呼ぶ。同じものを作り続けるは思考も思想も停止の印象。住宅特集とか新建築とか。もう見る必要性がなくなってきているのは自分だけ?
"時流に乗るな、多数派に巻き込まれたら脱皮して必ず少数派になれ"と助けの言葉を借ります。
と消してしまいたくなるような文字。建築をしようと日本建築の情報を集めるとやる気が削がれダークな自分が、、、
海外の建築家でも見よう。
Bureau Spectacular
http://bureau-spectacular.net/
Heatherwick Studio (デザイン&アーキテクチャーってのがダサいけど)
http://www.heatherwick.com/
Mark Foster Gage Architects
https://www.mfga.com/
ASSEMBLE
https://assemblestudio.co.uk/
それから自分は新しいことに挑戦し続けています。ということで
まとまりのない文字を描くこと。整えられていないというよりレイヤーを重ね合わせていく感覚。それがしっくりくる。
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