今日から文字は通勤時間に描くことにしようと思う。家兼アトリエでは作品に没頭する。そんなスタイルでいこうかなと、、、無駄な時間を少しずつ排除していく。そして、作品の完成度を少しでも高めていこうとそう思う。
発注芸術という言葉がある。文字通り作品を発注して制作するスタイルのことである。発注することで他者との関わりを持たざるを得ないこのスタイル、そこには今の建築の問題が含まれているような気がする。
建築家は構想はするが直接作品を制作することはない。ではその建築家の作った建築の価値は一体どこで発生することになるのだろうか?
少なくとも建物が完成した時ではないはずである。それは建築家の手垢の着いたものではないからだ。建築家の匂いはするが手垢はない、、、そしてこの建物のオリジナリティは誰のものなのか?と彷徨うことになる。施工者のものだろうか?施主のものだろうか?建築家のものだろうか?建築家が建築を1人で作ればそれは果たして価値ある建築になるのだろうか?
少しこの話に方向性を与えるためにドナルドジャッドの作品に目を向けてみてはどうだろう。スペシフィックオブジェクト、発注されて他者によって作られたこの四角い箱はいつどのタイミングで価値を獲得するのだろうか。アイディアが考案された時だろうか?発注する事で発生する他者の手垢を限りなく削ぎ落とすためのミニマムキューブの発明を行った時だろうか。制作されたものが美術館に納まった時だろうか。これは少し皮肉も込めて。これを今の建築に置き換えるとするなら美術館やギャラリーはGAやエルクロッキーといった雑誌になるのだろう。当然、建物の流動性が得られないため写真や文字が彼らの作品のこことあそこを結ぶ、そうロバートスミッソンである。こう建築を理解すると建築の価値は写真と文字、図面その連なりの中にあると言えそうだ。建築家が本をよく書くこともこれで納得がいく。。。
またロバートスミッソンの作品の価値と現段階での建築の価値、その位置付けは等しいものになるのだろうか?そこでのパワーバランスを考えるとGAやエルクロッキーよりMoMAやグッゲンハイムに掲載展示される方が強そうだ。その違い展示されるか否かはやはりその作品への手垢の存在ということになるのだろうか?それとも理論家的に立ち振る舞おうとする姿勢の重要性、ジャッドやルウィットもそんだったように?作品の所有者の問題だろうか?MoMAが所有する、グッゲンハイムが所有する、、、これを歴史としてしまえばもう交わる場所もなくなってしまうようだが、、、彼らが保有することのできる作品。展開された場における彫刻とその場における建築。彫刻は再構築されるがなぜ建築は解体されたままなのであろうか。建築の解体。磯崎新。
そして、谷口吉生(MoMA)やフランクロイドライト(グッゲンハイム)の建築はどこにおさまる価値の建築であろうかということも考えたい。GAだろうか?エルクロッキーだろうか。いや、グッゲンハイムであってMoMAその施主なのであろうか。それが芸術というシステムなのだと、、、実用的なコンセプトは理解されるが、その形態の思考、芸術の中での建築の立ち位置については誰も気に留めない。とするならば建築の価値が一向に上がらないのはこの負のループによるものでつまり、実際の建築だというところ(建物)に建築家の匂いはあるが手垢はない。美術館そのものにはなるが美術館の中には入れない(蚊帳の外)流動的ではないということで理解することができないだろうか?建築の動産としての価値。そこに芸術の価値がある?
つまりロバートスミッソンとドナルドジャッドの弱点?を合わせ持つ、建築という立ち位置。アイディアを考えた、コンセプチュアルなものとしての建築ではあるがそのコンセプトの次元が芸術とは異なり、それは人のためであって建築のため、芸術のためにはなりきれないという。建築のための建築、そのコンセプトが求められなければ価値は上がらない。それを語らなければ価値があがらない?その価値とは一体、、、
この価値にもっとも近づいた建築家はゲーリーなのではないだろうか。もしくはハンスホライン。もしくはアンビルドな建築をつくった建築家たち。コールハースもありえるか。ザハも近い。それぞれ方法は異なる。私はこのラインを目指す。もちろんその先を見据えて。
リレーショナルアーキテクチャ、何年落ちの内容だっただろうか?建築の遅さは建築の価値を鈍らせている、、、そしてこの状況に対して建築家は常に見て見ぬ振りをする。
私は料理をする。リクリットティラバーニャと似たスタイルだろうか。いや、全く異なる。私が思うに彼は、人を喜ばせるために料理を振る舞ったのではない。彼は美術館やギャラリーといった制度自体に料理を振る舞った。今まで匂いや味のなかったこの場にそれを付け加えた。
私の料理はというと芸術という制度に振舞われるものではない。その場、その建物に振舞われるものだ。それはマーキング建築とでもいうべきだろうか。建物に新たな建築を上書きし続ける行為。建築を更新するための方法。建物に新たな体験を建築する。母や父が料理をするわけではない。建築家が料理人として料理を振る舞うのである。その意味は大きく異なる。
それは私の映像(掃除)にも同じことが言える。その背景に見えるのがリクリットティラバーニャなのかハイレッドセンターなのか?
ゴードンマッタクラークでもよいか、、、という違い。如何にして建物に私の手垢(建築)をつけるか。マーキング建築。動物が、自分のなわばりなどを示すためにしるしをつけること。ふんや尿を残す、爪あとをつけるなどの方法をとる。また自己紹介的役割も果たす。らしい。考えてみればデュシャンの泉もマーキング行為としてそれもとても流動的なものとして理解できる。トレーシーエミンの作品も、その他の芸術家でも多くの場合建築的に言えばそれはマーキング行為である。そんな状況の中で建築について語ろうとする建築家は実はそれほどいない。建築家のプレゼンは新しい発見、新しい文化の構築とはほぼ無関係だ。作る理由を作るというデザイナー的発想。故に価値は消費され続ける。
それが悪いわけではないが、平凡で退屈で野暮ったい。使い古された言葉の羅列。それが今の建築である。建築の建築性を語ることができるのは僅か。建築の作家性がパッとしないのもこういったところに原因があるのだと私は考えている。建築家は何のために建物を建てるのか?建築家は何のために建築し続けるのだろうか。注文の多い料理店の建築料理人。包丁にも上書きマーキング。パフォーマンスの美学。
次は美術館やギャラリーで行われる建築展について考えたいと思う。
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