建築が美術館に入るための方法として写真、模型、図面、文字があると前回話した。そして建築家の考えるインスタレーションという可能性もここに付け加えておこうと思う。建築のこことあそこを繋ぐための方法である。ただこう考えると建築の建築たる所以はどこにあるのか彷徨い始めてしまいそうだ。
建築とは建物のことを言うのではなく、その過程やその連続的な連なりの中にあると、、、というのが前回までの話。
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今回は建築展の目的や可能性について考えてみようと思う。
有名なところで言うとヴェネツィア・ビエンナーレがある。美術部門、建築部門、映画部門、音楽部門、演劇部門、舞踊部門からなる国際展覧会である。今年はスイスが金獅子賞。
2012年に日本は金獅子賞を受賞していますが、これは東日本の震災を経験した日本に送られたエール。
建築展は少し捉え方を誤ると建築店となる。
建築家自身のコマーシャル、自身の本のコマーシャルをするための場としての建築展。いや、建築店?もしくはこれは空間広告という新たな広告なのか?それはハイブランドのショップも同じで、買い物はインターネットで済ます。
建築家と本。その関係とは?
店と展、ズブズムの関係であるのはいいことなのかもしれない。展示することが優先されるのか売ることが優先されるのか。イコールであるという建築。
ギャラリーとは聞こえのいい美術店。〇〇商店と変わらない。
これが建築のイリュージョンなのかもしれない。ネーミング建築。
そしてそんなギャラリーや美術館は動物園と変わらない遊園地と変わらない美術園地なのかもしれない。話がどんどん脱線していきそうです。そこが面白い建築の歴史です、、、館というと少し高尚な雰囲気が漂いますか。お化け屋敷ではなくお化け館にしますか、遊園館にしますか。皮肉が大好きな建築家。動物館、博物館の違いは生と死ですか。どっちが生きててどっちが死んでるかわからなくなってしまいそうです。
建築の場合は少しひねくれていて、模型や図面や写真を作品として扱わず、資料として扱おうとします。その変わりに本を売ろうとする。映画のパンフレットを売る感覚。広告を売るわけですからいい商売です。ズブズブ。
映画パンフレットと検索すればオークションサイトがトップページに。少し萎えます。
と言ったストーリーのように、、、
日本の場合は絵本としての建築、漫画としての建築というのが建築のセオリーとなり得ます。図書館は”本の森”という絵本的な内容で物語を語り始める。森の”木”という漢字に”一”を付け加えて本を3つ。で本の森を作ります、というコンセプト。
水族館は”スイミー”だろうか。魚の群れと空間の群れで、、、1つの水族館をなんて内容にでもなるのだろうか。敵はだれ?
森山邸という有名な住宅はコマ割りした建築である。サザエさんの家もドラえもんの家も図面を記さなければその空間構成は分かりづらい。しかし、漫画のコマ割りのように空間を理解すれば一つ一つのコマはよりドラマチックになる。その効果を発揮させるための建築。部屋を1つ1つコマ割りする。分節する。
今の建築をこう理解すると建築の歴史を更新することにはあまり重点が置かれていないように思う。あくまでデザインとしての建築に立ち止まる。
常に建築の存在、建物の存在を疑ってみるというスタート地点ではなく、現在の建築、建物の存在を肯定するところからストーリーが始まる。
絵本作家と同じく絵本を描くというところから始める。絵本を疑うことはない。
つまり本と建築の築いてきた関係は今尚良好で建物はその本を売るための広告空間。
今建築展は本を売る飾られた広告空間というインスタレーションのように思う。
基本的に歴史に名の残す建築家には必ず有名な本がある。
絵本よりリアルな建築。建築よりリアルな映画。映画よりリアルな絵画、彫刻。
いやこれは多分間違いだ。。。そう信じたい。
芸術家も同じか。作品を売ることと作品集を売ること。2重、3重で自身の歴史を売り込む。寂しく感じますか。潔く見えますか。どうなんでしょうか。
本が売れない時代、それとは無縁、それとも無視?
インターネットに本の内容が載ることはありません。本と建築はボーダーレス。インターネットと本は国境だらけ。鎖国、鎖国、鎖国。
利益がないので鎖国。
建築展は自身の本を売るためであって、自身の立ち位置を表明するためのもの。建築展はデザインとしての建物の話で溢れている。が現在の芸術としての建築を相対的に語る建築家はほとんど見たことがない。故に現代アートとの接点は少なく、建物を介して接続されるというやや強引な状況。
なぜ私が現代アートとの接続をここまで切望するのか、それは建築の流動性を確保するためである。地震や原発と建築の関係。建築が定着していることでポジティブになれる可能性の方が少ない。あるとしてもそこに偏り過ぎるのはよくない。
先日、学生の敷地と模型(くっつけるべきか、そうではないか)という内容がSNS上でちょっとだけ話題なりました。では建築展はどうなんだ?と。建築家の建築展は建築作品(インスタレーション)として提示しているのではないのか?と。でもその場に設置はしてあるが定着はしていない。明日にはこの場所から撤退できるという状況を作り出すこの建築展は流動性を得るためのものではなかったのか。絵画は多くの場合キャンバスに。彫刻は多くの場合台座に。建築は多くの場合、什器やテーブルに作品を並べるではないか。固定するべきか?してはいないではないか、、、これは異なる話か?同じであろう、、、
模型の下には敷地模型がありますがその下にも敷地は存在します。それがギャラリーなのか設計事務所なのか学校なのかアトリエなのか、、、それを定着するのが建築ですか?それは建物です。それは施工業者としての手つきなのです。
学生には建築を作品化する可能性を残しておいてほしいと思います。
建物を建てる建築士になるのであればもちろん定着して構いません。
と僕自身の建築と建物についての考えです。
もちろんブランクーシという建築家がいれば話は別です。その時は敷地と模型は固定しなくては作品とは呼べなくなってしまいます。いやブランクーシであったとしても、、、
話を戻すと、例えばコールハースはまさに本を流動的建築の素材として扱います。錯乱のニューヨーク、、、S,M,L,XL、、、新書も出したようですね。本の出版イベントも行われていたようで建築家の仕事はアイドルとそう違い無いのかもしれません。握手会をしなくちゃいけません?
日本では磯崎新さんもこのスタイルで建築を流動的に、という感じでしょうか。本は建築家の頭。オペオペの実の能力者です。本に自分の脳みそを移植します。
建物と流動的な本という2つを組み合わせるため、一見バランスがよく見えます。
が建物という定着した非流動的な不動産がある故、難しい環境を強いられます。特に日本という国では地震もありますし、敗戦国ですし、建物の価値が消費されていきます。
ここでもう一度、建築展の重要性を考えてみてもいいのではないでしょうか?
建築展に建物が展示できなくて苦し紛れの建築模型がペナペナで、、、ってことなら模型を作品にまで昇華してあげた方が至ってわかりやすい。模型を彫刻へ。図面を絵画へ。
建物が壊れる経験を幾度となく繰り返せば、、、
台風やハリケーンのように空からやってくるものとは体験が違う。建物が、私たちが立っている大地が揺れる恐怖というのは根本的に違うもの。アメリカと日本の建物事情。
つまりキャンバスが危険だし、台座が危険だし、建物が危険だし、本が危険。
だから絵が流動化するし、彫刻が流動化するし、建築が流動化するし、文字が流動化する。
ただ建物だけはつねに大地にある訳です。これでは建築は発展しないのではないでしょうか。
大地が揺れる、避けるには飛ぶしかありません。浮くしかありません。移動するしかありません。地震がきた時に私がジャンプしたって意味はありません。
多重影分身からの大玉螺旋帯連丸。
ゴムゴムの実。
テクマクマヤコン。
シャンクスが2人いる説。
エースが2人いる説。
タイトルがワンピース。
2つを一つにするんですかね?
ブリーチもこっちの世界とあっちの世界。
建築展とは基本的に未だインスタレーションどまり。
インスタレーションは芸術から発展したのではない。
建築展にもともと存在していた。
それを流用した芸術。
インスタレーション、そこに並ぶモノ、コトたちは資料。全体を通して作品と見る。
建築展。模型を彫刻に。図面を絵画に。
建築展とは建築に流動性を与える試みなのではないでしょうか。
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