21回目。
先日の記事で坂茂さんを紹介して、改めて自分の作品を見直した。そしてまだまだだなと……反省、反省の連続。
写真、広告、文字、ファッションそれらが今の自分の建築作品なのだが
自分が思っているよりすごく狭い範囲でしか建築が見えてこない。これでは駄目。
料理を始めて4年が経とうとしている。皿洗いから始めて、和食、鉄板、高級焼肉店で色んなことを学んできた。これを建築化できるのではないかと今考えている。
OMAのパートナーである重松象平さんもこの料理と建築の関係性を研究されていた。この日本の食、世界の食の違い。モダニズム以降の建築の世界とはまったく異なる質を持つ食。それを建築化する。
衣食住が自分の建築家としての仕事として本当に見えてくるように頑張りたいと思う。
パリオリンピックではeスポーツが種目として検討されているらしい。
本当にオリンピックの種目になるのか。
実現すればOMAの作品も納得のものとなる……やはりすごい。
建築知識もすごいことになっている。
建築というより、建物設計の知識という内容なのだが、これはこれですごいことになってきた。
今日は青山ブックセンターにぶらっと散歩がてら行ってきた。
現代日本建築家全集。1はアントニン・レーモンド。2に村野藤吾と続く。日本建築家の始まりは日本人ではないという事実。
23、24では建築家は現代作家となる。これが建築家の歴史なのか。
もし建築家が作家となるならば必然的に作家性を求められることになるのだが……それはスタイルのことか?それはアノニマスなものなのか?
今の建築はどこに進もうとしているのだろうか?
DIY的な建築?素人っぽい建築家。これを狙って建築するとはつまり……
藤本壮介さんが登場して以降、この傾向(素人っぽさ?)が日本建築に色濃くでてくるようになった。それは少しアニメ的であったり、映画のセットのようであったり。見方は色々だがいつも思うのはそこには誰も生きている人がいないということである。
普段のその場所にはキャラクターはいない。俳優もいない。台詞も無い。3.11以後の建築。飾られた人たち。
人のいなくなった街。そこにはソファがあり、テーブルがあり、食器があり、布団があり、洋服がある。人がいた痕跡だけがある。この建物を彩る装飾のようにこれらは扱われ、建築の不完全さを覆い隠す。
映画のセットの裏側のように。見える部分だけをそれらしく見せる。
そこにパフォーマンスしない普通の人間が現れた途端、建築という衣を剥ぎ取られた、ただの建物(なんの魅力もないもの)になってしまう。
ここでも。
そして多分ここでもそうなることだろう。
ここにはyou tubeというフレームがある。字幕もある。
パフォーマンスこそ日本建築の基盤なのかもしれない。
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