建築示
展開された場における彫刻、そして建築へ
ロバートスミッソンやマイケルハイザーは美術館やギャラリーから外にでてARTを作り始めた。
そんな彼らの活動を新たな彫刻作品として示したのがこの展開された場における彫刻の中で紹介されたスクエアのダイアグラムである。これはロザリンド クラウスによって1979年に発表されたものだ。
図のように(風景)(非風景)(建築)(非建築)と四つの項目のそれぞれの間に彼らの作品を配置し、彫刻の新たな時代を可視化した。

(図1)
彼らにとってのジレンマは常に彫刻の自立性をうまく証明できないことにあった。
故に形式主義的に風景ではないもの、そして建築ではないものが彫刻であるといった他者との違いから輪郭を拾うものとなっていた。
そして芸術文化の中でも絵画でもない、建築でもないものが彫刻であると言ったような関係の中間的立場を担っていたのである。
そのような状況の中で美術館やギャラリーという建物から脱却しようと試みたことは決して偶然ではないはずだ。
例えばローバートスミッソンのスパイラルジェッティは(風景)と(非風景)の中間地点である”マークされた場”として建物から脱出した。
ロバートスミッソンは(風景)とも(非風景)とも呼べない曖昧な状態にある、彫刻の新たなカタチを発見したのである。それは場所性にもマテリアルにも影響を及ぼし、グレートソルト湖という西半球最大の塩水湖に土砂や玄武岩を用いて作られた。
この作品は美術館という建物を避け自然に晒されることで彫刻作品として変化していくことを受け入れた。つまり彫刻が建築に頼っていた保存や保管の一切を手放そうとしたのである。そうすることによって浮かび上がる彫刻の姿はまさにサイトスペシフィックな作品と呼べるものであった。
またリチャードセラの彫刻は(建築)と(非建築)の中間地点に配置され公理的構造として理解された。
(建築)と(非建築)との間に存在する構造体は美術館に配置可能なポストモダニズム時代の新たな彫刻のカタチとなった。
構築されたその彫刻は建築内部に新たな(建築)ー(非建築)の内部空間を生成した。
これらの彫刻は体験型のARTとしてインスタレーションとの関係性を構築し、人とモノとコトとの間で作用するものになった。
建物から脱出するものではなかったが、空間に影響を及ぼしその意味をすり替える力がこの彫刻作品にはあった。これらの作品は建物のコンテクストを書き換え建築に強度を与えることで成り立つまさに新時代の彫刻の姿をしていたのである。
マイケルハイザーのcityは(建築)(風景)の間にある作品だ。
ピラミッドのような構造を持つ彫刻があったり、コンクリートの建物のような造形が風景を形成している。
しかし建物が持つはずの機能がここにはないし、人の生活していた痕跡もない。
それは人のために作られた街ではなくARTのために作られた街だ。
この作品の最大の特徴は”マークされた場”が放棄した保存や保管の方法を建築的構造を得て自ら獲得していることにある。
この作品は劣化したり、風化したりはする。だがしかし、自然に完全に侵食されることはなく、補修することも容易である。
マイケルハイザーのcityは建築都市の理想を追い求め、ARTを体現する彫刻都市を形成する。
これらの彫刻作品は上下左右に向かい合う4つの項目の中間地点として、決してそれぞれを否定して自立を謳うものではなく、曖昧な状態に晒されながらもある一定の強度を得ることに成功した。
その強度獲得に貢献したのがこの"展開された場における彫刻"である。
これまで見られることのなかったARTの関係性を可視化することでアースワークに鮮明な解像度が与えられた。
この展開された場における彫刻はモダニズムの次の時代の彫刻のあり方としての可能性を示したのである。
展開された場における彫刻の建築的理解。
ここで用いられた4つの項目(風景)(非風景)(建築)(非建築)があるがこの和訳はこのダイアグラムの難易度を高めている。
なぜなら(建築)と(風景)に明確な境界線を設けることが困難だからだ。(建築)が(風景)の一部になることも考えられるし、もちろん彫刻を(風景)と捉えることもある。その"間"を探すことが非常に難しいのだ。
また建築が建物とは別の"もの"であることは前述したとおりであるが、このダイアグラムでは(建築)=建物と誤解を招くような構造に和訳されてしまっている。
そのため一つの提案がある。この(風景)という項目を(自然)へ、(建築)という項目を(建物)へと変更したいと考える。
それが日本においての最適解だと私は考える。
(自然)(非自然)(建物)(非建物)とすることでこのダイアグラムの解像度を日本的に高めることができるはずだ。
つまり(非自然)であり(非建物)であるものが彫刻であるという認識だ。
そしてこの(建物)(非建物)からなるものを公理的構造と理解するのでなくこれを建築と呼ぶべきだと私は提案したい。

(図2)
この解像度が与えられた時点から建築家の活動に注目してみたい。(図2)
これまで展開された場は彫刻家たちにのみ焦点が当てられてきた。
しかし建築家たちがこの開拓された地を眺めていただけだとは思えないし、このままでは彫刻の一方的な解釈にとどまるだけである。
それはARTとしての彫刻を理解することにはなるものの、ART文化の中での絵画、彫刻、建築の関係性を理解するところまではたどり着けていない。
ポストモダニズム時代の建築家たちの彫刻性に焦点を移すことで生まれるARTと建築の可能性に注目したい。
またポストモダニズム時代の彫刻と建築の差異を照射することで新たな可能性が見出されることを切望する。
展開された場における彫刻を建築的に語ろうとする時もっともその事例が多いのは(建物)⇄(非建物)の間にある建築たちだ。
ここには建築家たちの模型も含まれるだろうし、アンビルドな計画案も含まれる。また、建築展覧会もここに分類されるのだろう。
もっとも理解しやすいのは石上純也の四角いふうせんではないだろうか。
建物内部に1トンの重さのあるアルミ造の四角い箱が浮いているこの作品はまさに(建物)でありながら(非建物)でもある中間的な立ち位置をとる。この風船は鏡面仕上げになっていて触れれば当然のようにゆっくりと動く。
動くことで空間のレイアウトは徐々に変化していく。その中で鏡面仕上げによって反射される空間の様子もまた変化していく。
つまり四角いふうせんは建築内部変化装置として建築空間に機能する建築なのである。
これは(建物)⇄(非建物)二つの間でまさしく揺れ動く建築であり、この展開された場の関係性を象徴する作品であると言えるだろう。
この(建物)⇄(非建物)には無数の建築の歴史が関与している。
しかしこれらの作品が彫刻作品として受け入れられることはなかった。それは建物=建築という図式が成り立つものだと信じられていたからであろう。またそれに付随する図面や模型は建物ではないもののその枠から飛び出すことができないものだと捉えられていたはずだ。
しかし前述したとおり建築=建物の関係は崩れ始めている。いやそもそもそんな関係性は初めから成立していなかった。
そしてやっとこの展開された場における彫刻のおかげで拡張された彫刻の領域を建築は知ることができたのである。しかし、それでもまだ不十分であることは否めない。
それはその拡張された場における建築家たちの言葉や身振り手振り、そして批評にそのコンテクスト、その全てにおいて量が足りていないからだ。
それには時間を要するはずであるがこの勢いは加速するだろう。ここに彫刻作品としての建築が表出するのは時間の問題であると言える。
次に(自然)⇄(建物)の作品はというと石上純也の山口にあるメゾン・アウルという洞窟のようなレストランがあったり安藤忠雄の地中海美術館、 西沢立衛の豊島美術館などがあげられる。
これらの作品は自然に同化していたり、自然に隠れたりしている。
風景のシルエットを大きく変更することはなく、マテリアルの変更が行われたりする。
もしくはマテリアルをそのままに空間を掘り起こしていくような作業だ。
ここでも注目されるべきはやはりこれらの作品が彫刻作品だとは理解されていないことである。ここでは自然に溶け込む建物性だけが強調されている。
これだけの歴史や文化を構築してきた彫刻と建築。その中でお互いが交差する現象はこれまでにも何度かあった。それを見落としていただけなのか、もしくはあえて見ないフリをしたのか。その中で一番明白な事由は建物が持つ機能についてである。絵画や彫刻における”鑑賞や体験”と建物を”利用”することには大きな違いがある。そもそも人に利用されることが前提の建物たちは常に人々の身体性に依存する。それは未だ使い勝手がいいか、空間美でしかその価値を図ることができてはおらず、そこには絵画、彫刻との明らかな違いがある。未だ建築のための建築を実践することができていないこと、それが彫刻作品として認識されなかった最大の理由であると考察する。
(自然)⇄(非自然)の作品にも石上純也の水庭がある。
これらの展開された場を意識したように丁寧に配置されている石上純也の建築は今後より注目すべき建築になるのかもしれない。
彼はポストモダニズム時代最後の建築家としてこの建築の意味を問うている。ポストモダニズム建築とはなんだったのかを、そして現代アートのコンテクストの中で語る建築のあり方を。そしてなによりこれから始まるであろう現代建築を。
このような状況の中で私が捉えるのは、ポストモダニズム時代の建築(アーキテクチャーではない)の敷地はこの展開された場に彫刻と同じようにあったのではないかということだ。それは彫刻的なスタンスで捉える建築家の実践とその痕跡にイメージが被る。
そこでデコンストラクションの建築家を想像することは容易にできるだろう。もしこの状況をこの展開された場で想像できない場合はもう一度(自然)⇄(非自然)を(風景)⇄(非風景)に変更してもらえば想像しやすくなるのではないだろうか。
また日本はデコンストラクション建築を拒絶したのだが、それでも彫刻的建物を求めていることがわかる。日本の建築家たちは建築雑誌の表紙に掲載されるようなアイコニックな建築を行おうと他の建物との差別化を図る。
このような流れはモダニズムからの反動とも取れるが同時に建物の造形の、そして建築理論の限界をも示唆している。つまり建物として設計する場合の構築方法がパターン化され、その中で求められる"解"もまたパターン化しているという現象が起こっているのだ。故に建物の可能性を自然や彫刻という展開された場に建築家たちは求めたのである。
今ではアイコニックな建築家たちの建物でさえ匿名性を帯び、建築家としてのパフォーマンスは存在感を薄めている。今私は建築雑誌を開いてもそれが誰の作品なのかまったく見当もつかない。そこで表象するのは建築文化価値の低下であり彫刻的建物の限界である。それは日本の災害による経験が大きいことも理由であるが問題はそれだけではない。
世界的に見るこの彫刻化の流れ、特にデコンストラクション建築は未だ主流と言ってもいい状況にある。だがしかしその中でコンピューターを多用するデコンストラクションにも限界が近づいている。
どの建築も個性が失われ続けているのだ。コンピューターの性能が上がり、複雑な構造計算が容易になり、造形の自由度は増した。しかし建築活動の中でコンピューターの持つ意味が大きくなるにつれ、導き出される”解”は自然と均一化したのだ。
今後もっとも恐れられることはこれらの状況の中で建築家の持つ言葉に価値がなくなることである。それらの価値はコンピューターの価値にすり替えられる。
それは建築家たちから学ぶ建築学がなくなることを意味し、建築文化の完全なる停止を引き起こす。
現状の建築の停滞をどのように理解するべきか、私たちはそれを考える必要がある。がその前に検証しておかなければならないことがある。それはこのスクエアのダイアグラムの有用性についてである。ここでこのダイアグラムがどのような構造的強度を持っているのか"彫刻"と"建物"の配置を変換して検証してみることにする。

(図3)
展開された場における建物の図
"この展開された場における建物"の図で何が展開されるのかというとそれは当然のように建物である。そしてこの先に展開されるのは"都市計画"についてでありその構造についてである。(非風景)と(非彫刻)からなる建物、その展開された場は都市の構造を浮かび上がらせる。例えば東京という都市に変換してみるとそこには無数の建物がある。そしてアイコニックなお台場のフジテレビや都庁のような建築がある。マークされた場には新宿御苑や代々木公園が該当するだろうか。そして位置ー構築されたものには六本木のママンなどに代表されるパブリックアートがあげられる。そのようにして構築される都市の姿は世界共通のものであるし、その意味ではダイアグラムの有用性を証明しているように思える。
例えばなぜ都市においてこの構造が重要なのかと問われたとする。しかしこのダイアグラムから説明できることは今のところ建物の展開された場に都市が表出するということだけであり、都市には必ずこれらが存在していなければならないということではない。しかしこの展開された建物たちがあることによって都市の強度が一層強固なものになるということは想像できるだろう。世界の主要都市を思い浮かべてもこれら4つの"展開された場における建物"の姿が目に浮かぶ。
展開された場を一つずつ見ていくと位置ー構築されたものには永遠にそこにあること、その永遠性が求められている。これはスクラップアンドビルドされていく建物との対比としての役割が与えられている。常に変わりゆくものと変わらずそこにあるものが都市には求められているのである。そしてマークされた場は都市の中で唯一自然を体験することのできる非自然的な場所だ。それは都市のなかではかなり重要で建物にとっての余白として機能する。つまり建物という用途ではまかないきれない人間にとって必要な用途をこの場でまとめて提供するのである。そして建築についてであるがこの建築に求められるのは文化、その歴史である。それを簡単にまとめると渋谷と原宿と表参道の違いがあげられる。109、センター街の歴史と裏原の歴史とハイブランド化の歴史である。それぞれに訪れる人の特徴は変化するし、発展するもの、流行するものも変わる。
建物にとっての建築とは色の多様さを示す。同じ建物を建てたとしても建築が違えば建物は当然違う結果を生み出すのである。そこに文化価値が表出する。
この展開された場に生まれた4つの項目、建築⇄マークされた場と建物⇄位置ー構築の対比構造を整理してみる。
建築とマークされた場の対比の構造が意味するものは歴史の蓄積を続けるものしての建築と永遠に維持されるべき、変化をしない文化とは隔離されたマークされた場という対比の構造だ。つまり建築=文化でありマークされた場=自然"的"である。
建物と位置ー構築の対比構造が意味するものは生と死についてである。位置ー構築にあるものは死とは無関係でそこにあり続けなければならないものであり位置ー構築=永遠である。それに対して建物という場所は生死と私たちとの関係を直接結ぶ場所であり建物=瞬間となる。
私たちの都市での生活とはこの四つの構造を中心に流動的に連続的に体験することによって成立しているということが言えるだろう。
このダイアグラムの有用性を確認した上で現状の建築の停滞をどのように理解するべきか、考えていきたい。
建築の停滞を1-3図から考察すると建築作品のART性に問題があることがわかる。
これは建築の歴史に関わる問題だ。前述したとおり建築が起こった瞬間も、建築の学びの場も、建築は生まれた時から常に曖昧な状態にあった。その中で現代ARTという新たな文脈を解読せず、古典的な芸術の美を追求した。その地殻変動に対応できずコンテクストの更新が行われなかったことが最大の理由であろう。故に建物と建築を混合して理解してしまう(図1)のような現象が起きるし、"展開された場における彫刻"の中に建築が表象することも発見できなかった。
また日本建築が常にアーキテクチャーを追い求める構図にありその評価軸も海外のアーキテクチャーに頼ったことも理由の一つに上げられるだろう。つまり建築はアーキテクチャーとして海外の文脈の中で評価されることによってなんとか成立していた仮の姿であったと言える。故に建築批評はARTとは異なる次元で展開されるようになるし、改めて建築を問うこともしなかった。そのような状況こそが建築停滞の理由としてあげられるだろう。
だが建築とアーキテクチャーのそのような関係性を日本画と西洋画の関係性と同様のものだと理解するべきではない。私が捉える建築とは造家との分断の後にアーキテクチャーの中で発展し、その中で奇形した新しい文化だということだ。それはアメリカのコミックスと日本のマンガのような関係性を持つものだと理解してほしい。
"建築の新たな展開"

(図4)
郊外を中心に広がったアースワーク(図2) と都市の構造に新たな視点をもたらした展開された場における建物(図3)。そこで共有される”建築””位置ー構築””マークされた場”。それらに注目して新たな関係性を探っていこうと思う。
その中でまずはじめに位置ー構築における対比構造に注目する。(図3)の都市構造には位置ー構築=永遠という時間が与えられ、建物=瞬間という長い歴史を刻む都市の中での建物の立ち位置を表明する。
しかしアースワーク(図2)における位置ー構築と彫刻の対比構造ではその対比に反転の現象が起こり位置ー構築=瞬間、彫刻=永遠という構造になる。そこで理解されるのは建物と彫刻の間に瞬間性と永遠性の差異が生じることである。またここで都市と郊外における時間性にも違いが現れており対比構造はきれいに反転する。
次に建築とマークされた場について観ていきたいと思う。この二つの展開された場はそれが都市であっても郊外であっても建築=文化、マークされた場=自然、の対比構造を形成する。これらの関係性は安定しているようでそれが都市であっても郊外であっても同じように機能する展開された場だ。 この建築とマークされた場を結ぶ水平線を建築的スーパーフラットと私は捉える。いずれこの建築的スーパーフラットによって建物も彫刻も位置ー構築もこの水平線に引き寄せられることになるだろう。ここで私たちが目撃するのは永遠性と瞬間性という時間軸のスーパーフラット化である。それは都市と郊外の中間で起こり、流動化することによって建築はART化する。これが現代建築の姿であると考察する。
私たちは都市と郊外を流動的に動く建築の姿を捉える。それはアーキグラムやハンスホラインの作品のような建築だ。そしてそんな彼らの建築が歩んできた道のことをノンサイトスペシフィッックと呼ぶ。そこはただのスーパーフラットな敷地ではなく円環のような場だ。都市と郊外を行き来するこの建築は複数の展開された場を結びながら移動し安定性をもたらす。この円環のスーパーフラットな敷地こそが現代建築の敷地であるし、建築がART性を獲得する唯一の場になるだろう。すなわちここがKENCHIKUの目指すべき場なのである。
ノンサイトスペシフィックは流動的建築が作り出す場のことである。それは特定の場と強く結びつくサイトスペシフィックなものとは異なり様々な環境のなかで特異な場を生成する新たな建築の姿である。
この次に絵画と彫刻と建築の展開された場を考察する。そこから見えるARTを照射しようと思う。
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