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新建築論(序)

更新日:5 日前


新建築論(序)*草案


建築/建築


建築始、建築死

建築始



 建築と出会い25年ほどの時が経った。今私が見ている建築は学生時代に学んだそれとは少し違って見えている。

私の建築人生は中学生の時にたまたま手に取った建築雑誌から始まった。

GA INTERNATIONAL 97。私が手に取ったこの本は未来の建築を紹介するものだった。

まだ竣工していない建築計画を世界中の有名建築家たちが紹介する、そんな本だ。このまだ世にない建築の姿を想像することがただただ好きだった。そこで人々がどのような表情で、どのような関わりを持つのか興味があった。そしてなにより自分が建築家になった時のさらに未来の建築について想像することが好きだった。それからは建築雑誌を読み漁り、適当にページをめくっては誰の設計かを当てるゲームを一人で楽しむような中学生だった。

その当時憧れた建築家はフランクゲーリーやコープヒンメルブラウのような所謂デコンの建築家たちだ。彼らの造形力には私の理解を超えていくような空間力があったし、何より模型やCGを見るだけでワクワクした。そんなゲームを続けた結果、海外の有名な建築家とその作品はほぼほぼ理解できるようになっていた。

そんな中学生時代だった。


 高校時代には日本にはどんな建築家がいるのだろうと気になり始め、インターネットでできるだけ情報を集め建築家のホームページを片っ端からブックマークしていった。

九州にはNKSアーキテクツや有馬裕之がいて、何より磯崎新の出身が大分であることがわかった。九州から日本を飛び超え世界的に活躍している建築家がいることがただただうれしかった。それは地元にどんなに有名なスポーツ選手やアイドル、俳優がいることよりも私にとってはとても重要なことだった。

中国地方には三分一博志や窪田勝文、小川晋一などの洗礼された空間を作る人たちがいることも理解していてその当時はミニマルだと評価されていたことも覚えている。

関西にはクセの強そうな建築家がいて安藤忠雄、高松伸や宮本佳明、山口隆、遠藤秀平などの作品は結構チェックしていた。その中でも高松伸のドローイングには惹かれるものがあり自分では描けないその一つ一つの線に憧れの眼差しを向けた。

東京には伊東豊雄がいて、SANAAがいて、隈研吾がいて、、、全てを書くのは止めようと思う。

東北にはサイアーク出身の阿部仁史がいることももちろんチェック済みであったしサイアークではゲーリーが教えていることも知っていた。

北海道には当時出てきたばかりの藤本壮介がいて五十嵐淳がいた。

そこから読み取れる作品の傾向を考えることが好きであったし、環境と建築になにかしらのつながりを感じ始めたのもその頃である。

それは建物と環境のつながりではなく建築家という人と環境のつながりという部分においてである。

その詳細については後述しようと思う。


 そんな私は熊本出身ということもあり高校時代は原付の免許をとり熊本アートポリスによって建設された建物を訪れることが日課となった。

市内に向かえば、みかんぐみや葉祥栄、妹島和世の建物があるし、父の実家のある八代に向かえば伊東豊雄の建物があった。

当時雑誌やネットで見ていた建築家たちの作品が身近にあることを知り、とても幸せな気持ちになったことを今でも覚えいている。

今思えば私の建築は世界を知り、日本を知り、熊本を知ることだった。

アートポリス探訪をしたことで熊本の道にはかなり詳しくなったし、建築とは一体なんなのか、と考えるようにもなった。

私にとってこれらの経験は彼らの建築理論を学ぶためのものではなかった。

そしてディテールを見ることでも、空間構成を見ることでも、意匠を学ぶことでもなかった。

私が求めていたものはこれからの建築理論をつかむためのきっかけのようなものだった。

地域による建築家たちの分類、アートポリスによって作られた熊本の建築。世界の建築たち。端的に言ってそこから見えてくる未来の建築をつかもうとしていたのである。




建築死



 大学時代には今まで雑誌で見ていたような建築家たちに教えてもらえる機会を得た。

その中で見えてくる未来があるはずだと期待をしていた大学時代。

だがしかし現実はそんなに甘いものではなく、未来が見える兆しもなく現実がただただ押し寄せた。建築家である先生たちに評価してもらうために傾向と対策をし課題を提出することもあった。提出したものがどこかで見たことのあるような作品たちであったことは言うまでもない。そこに建築の未来などどこにもないと絶望した。


 そのような状況のなか大学4年生の時に東日本大震災を経験し、卒業後は帰省した熊本で熊本地震を経験した。度重なる地震の経験は私の建築を大きく変えていった。

大学の卒業式は中止になり、東京では計画停電が行われ生活が機能しなくなる瞬間を定期的に経験した。

熊本地震では水や食料の配給をもらうために小学校に行く日々が続いた。

そして熊本のシンボルである熊本城は一部倒壊した。


今まで見てきた、そして学んできた建築は私の中で本当の意味でその瞬間に倒壊したといっていい。

地震の経験は建築というこれからをもう一度考え直すきっかけとしては十分過ぎるものだった。

なぜならそれからの建築は決して安全なものではなくなっていたし、もちろん安心できるものでもなくなっていたからだ。

生きる上で建築を避ける方法を想像することもあったがどこまでも建築は私たちの生きるに浸透していて取り除くことはできなかった。

建築と向き合い続けることが私にできること、そう自分に言い聞かせながらここまでやってきたように思う。

しかし未だ建築を消化し切れずにいる。なぜ、が積み重ねられていく現状が実際にあって建築の難しさを実感する毎日。

そろそろこのなんだかモヤッとする建築を自ら消化できないかと模索を始める。

その一部として今私が捉えている建築をここに映し、未来の建築へとつなげるきっかけを作りたい、そう考えている。


 私は今ここに建築という歴史に建築と共に生きる理由を見つけ出さなくてはならない。

そして建築の過去を未来に繋げるために現代建築という今を再構築しようと思う。

これからも建築が私の一部であり続けられるよう願いを込めて。



建築史


建築の起場


 建築という言葉が使われ始めたのは1897年のことである。それ以前は造家という言葉が使われていたらしい。

このらしいという言葉を建築論を語る上で使うことに違和感を覚えることもあるのだがここではそれを了承してほしいと思う。それは知識としての建築と体験からなる建築の差をどうしても埋められないからである。そして何より建築自体を疑い、建築自体を一度否定してみたいと思うからだ。

このような語り方については今後も使用することになるだろう。

そうした状況を理解した上でこの建築論を共有したい、そう思っている。


 話を戻すと1897年以前の大学では建築学科としてではなく、造家学科として機能していた。architectureという言葉は当然ながら欧米から輸入されてきた言葉だがその当時この言葉に適した日本語はないと考えられていた。

architectureとはアルケー (原理、始原)とテクネー(技術)という言葉が一体になった言葉である。それまで使われていた造家という言葉は建設や建造的な意味合いが強いものだったため新たな言葉が求められた。そのような状況から芸術を含むものとして提案され、定着したのが建築という言葉である。そしてこの建築は芸術の中でも美術に属するものであり、工芸に属するものではないと考えられていたようである。


 しかし今この建築とarchitectureが同等の意味を持つものかといえばそれはとても怪しいと言える。なぜなら私はこのarchitectureの本当の意味を知らないからだ。それは知識としてのarchitectureを教科書から掻い摘んで知ったふりをしているくらいのものだ。

また建築という言葉の成り立ちを知ることでぼんやりとその輪郭を捉えているだけに過ぎない。建築と建物、architectureとbuildingの違いはなんとなくはわかるもののうまく言語化できない。そして私が知る建築史の中で解体や再構築は起こっており、もはや建築は奇形してしまっている。

 建築と同じようにarchitectureについて語ろうとしようとするが海外の歴史的建築家にarchitectureについて教えられたことはないし、建築というフィルターを通して海外のarchitectureを理解しようとしているに過ぎない。それではやはりarchitectureと建築を容易に=で結ぶのは危険であると判断するのである。


 私が知る建築は本当にarchitectureと呼べるものなのだろうか。


 実際architecture=建築とすること、これを誤訳であると考える建築家は大勢いる。

そして造家と建築の捉え方も一様ではないことは言うまでもない。

それでもこの日本に根付いたこの言葉の意味を思考することには意味があるし、その発展の歴史を否定するべきではない。しかしそれを理解しながらも建築という言葉を使い続ける建築家たちに違和感を覚えることもあるのが正直なところだ。

 なぜ建築家たちはアーキテクチャーという言葉でなく建築という言葉を選ぶのか。

もし仮にarchitectureと建築をイコールで結べないものであるとすれば、建築という言葉が定着する以前の建物は建築とは呼べなくなるのかもしれない。

ブルーノタウトが見出したとされる桂離宮でさえもそれはachitecutureとしての評価であり建築の評価とは呼べないのかもしれない。

たとえ日本人がそれを建築と呼ぼうとしたとしても、である。

そうなれば”建築”にはarchitectureとは異なる別の可能性があるものとして再解釈が進むかもしれない。

私がここで捉えようとしているのはそんな建築の起場である。

これは当時その場にあったであろう建築の可能性とそれ以前の建築?と呼ばれるものの間で失われた建築史を探るものである。


 日本で建築という言葉が使われ始めたその当時、それらの時代に呼応するような形で世界では近代建築運動が盛んになっていた。

近代建築の主は機能主義と合理主義のなかから生まれた建築で後にインターナショナルスタイル(国際様式)とも呼ばれ、ヨーロッパ各国、アメリカ、それに日本を含んだ国際的な動きをみせることになる。

となると日本建築史における起源は近代建築でありそれ以前の建築は日本には存在しないということになる。

ならば当然、法隆寺も平等院鳳凰堂もそれは建築とは呼べないのである。

そもそもこれらの建物を建築として建てようとした人間はいないわけだし、これらの建物にとっての建築性とは当然後付けされたものである。

それがどれだけ不思議な状況なのかを私たちは考えることはしないし実際、それを受け入れるしかないというのが正直なところでもある。これは日本建築の基盤の緩さである。

そしてここに日本建築史と造家史の分断があると捉えるが、この分断の歴史が建築史の中で強調されることはない。それは歴史の後付けによって過去の建物を建築とカテゴライズすることで建物の価値を担保してきたからだ。つまり新たな文脈で建築を語ることはなく、強引に海外の歴史に繋がれた建築の姿があるだけだ。

今尚、造家と建築その分断の歴史は置き去りにされたままである。

建築学でそれを問い直すことは決してない。


 だがしかし私はこのような現状を憂いているわけでは決してない。

もしその分断の歴史に可能性があるのなら問い直す機会が必要だと考えているだけだ。

どのような歴史的背景があったとしても現在、日本の建築が世界に評価されていることは間違いない。工学的な建設の技術も発展を続けてきたという実感がある。

それが世界大戦や震災という破壊環境から生まれてきたものであったとしてもこの日本建築には価値がある。それだけの犠牲がある。その歴史は受け継いでいかなければならない。

そしてなによりこれが日本の建築史であるという事実を私たちは受け入れなくてはならない。

 これだけの破壊的歴史を経験しても尚、建築が工学に偏ることなく、芸術を必要としているその日本建築史という歴史を学ばなければならない。

そしてその源泉であるはずのARTとは一体何か、それを建築的側面から捉えたい。

そこにどんな価値が生まれてきたのか私たちは今ここで知る必要がある。


 私は今、建築と造家の分断から捉えることのできる建築の未来を理解しようとしている。


 architectureと建築が=では結べないこと。

architectureには核がありそうに見えるが日本の建築にはその核が必要なかったこと。

そうした状況のなかでも建築としてarchitectureをなんとなく理解できる建築学が存在している。それらを踏まえた上でこの日本建築を英訳するのならそれはきっとkenchikuになるのだろう、とここでは仮説を建てて先に進みたいと思う。




建築=アート



 建築=アート。もしこの図式を容易に受け入れることができているのなら少しだけ立ち止まるべきかもしれない。アート、芸術、Artこの言葉の意味は皆同じであると捉えるがそのニュアンスは実際異なるものである。

建築は芸術の領域であると考えることは間違いではない。それは建築と言う言葉の成り立ち自体がそれを示している。がアート、建築は輸入されてきた概念でありその言葉の成り立ちはそう古くないことは前述した通りである。つまり建築が芸術であるのは理解できるが、その建築の成り立ちは本来芸術ではなくもちろんアートでもなく、ARTを対象にしたものではないか、ということを考えなければならない。

 

 ではこのARTとは一体なんなのか。

私がこのARTという言葉を使うのはイギリス産業革命、フランス産業革命後のARTを前提にしている。つまりARTとテクノロジーが一旦切り離された後のARTである。このARTとは体系化せれたもので長い歴史を構築している。その上で現代に成り立つものをARTと考えることができるだろう。だがしかしこのARTから切り離されたはずのテクノロジーにも同等の性質が分け与えられている。

それは歴史の発展や蓄積による価値についてである。

テクノロジーは歴史に属することでその未来を切り開く。

つまり何もないところから突如発現するものはアートやテクノロジーには存在しないということだ。そしてそれは当然建築にも当てはまる。

 

 多くの人間が文化を一つずつ丁寧に作りだし、その中で歴史化している重要な作品たちが今も生まれている。これらの歴史的背景を踏まえた上で歴史を如何にして発展させることができるか、ARTをもってARTで示すことそれがARTである。

すなわち歴史の構築に携わらなければならない。歴史を無視するわけにはいかないのである。それは決して難しい話ではない。しかし作品を作ることは日を追うごとに難しくなる。

それがARTとテクノロジー、そして建築にまつわる本質の一部なのである。


 話を戻すと建築は芸術である。しかしそれ以前にARTでなければならない、それもFine ARTと呼ばれるARTである。そのような歴史的な背景があると捉えることで造家と建築の断絶を紡ぐことができるのではないかと私は思う。

インターナショナルスタイル以降の建築のあるべき姿は日本の芸術にではなく欧米のARTを照射するべきである。と。

それが日本の建築の出自であり向かうべき未来であると歴史は私たちに語りかけているようだ。その中で重要になってくるものがコンテクストと呼ばれるものである。日本語に訳すと文脈ということになるのだがそれらを理解するためにも建築とテクノロジーについての歴史を見ていこうと思う。




建築とテクノロジー



 前述したとおりテクノロジーはARTから1760年頃に切り離されるように名を与えられた。

そもそも同じ領域で考えられていたものだったため建築との相性が良いということも頷けるだろう。だがこれによって問題も生じる。

それは建築がテクノロジーとして語られることもあり、それでは建築はもはやARTとは呼べないのではという疑問が生じることである。それらの差異が建築に与える影響を捉えなければならない。

 何度も言うが日本の建築は1897年に芸術、アート、もしくはARTという場から生まれてきたものだ。ならば建築という立場からこのテクノロジーを私たちはどのように理解するべきなのだろうか。

例えば伊藤忠太が造家を建築へと変更することを望んだその時、彼自身がどのように欧米のARTを理解していたかを想像し建築を語るべきだろうか。

もしくは今あるアートにもテクノロジーの要素は十分にあるというような現状を理解したうえで建築を語る必要があるのだろうか。

はたまたarchitectureと建築を結びつけながら都合の良い解釈を行い、芸術、アート、建築、造家を複合的なものとして捉えようとすべきだろうか。とするとアートとしての建築と絵画と彫刻の関係性は果たしてどうなってしまうのだろうか。

そしてインスタレーションはよりその構造を複雑に構築していくこととなる。

しかしこの先の答えは必要ない。なぜならこの思考で発展していくそのストーリーは必ず曖昧な関係性を築いていくだけだからだ。そこに私たちが求める建築の芸術性は見えてはこない。

 私は建築をARTとして語る上で今ここでテクノロジーと向き合ってみようと思う。


 建築史というのはなかなか面白いものでハイテク建築と呼ばれている建築がある。

これはハイテクノロジーの建築というそのままの意味になるのであるが、これらの建築を私たちはどう捉えるべきなのだろうか。

このARTから分裂したはずのハイテクを含む建物をアートという領域にあるはずの建築と果たして本当に呼べるのか。もしかするとARTとテクノロジーの関係を繋ぐものとして建築は存在していると考えることもできるかもしれない。文化と技術を繋ぐものとして。

そのような状況を踏また上でハイテク建築について少し考えてみたいと思う。


 近代建築以降、構造は以前より自由なものになった。

そしてテクノロジーの発達があり、そのなかでエスカレーターやエレベーターは生まれた。

それは当然のように建築の内部に組み込まれていくこととなる。

ポンピドーセンターという有名なハイテク建築がある。ここでは空調ダクトは剥き出しになり、またエスカレーターが入った大きなチューブが外観にそのまま現れる過激な建築になっている。ポンピドーセンターではハイテクがそのままファサード(外観)になる。

これを私たちは一種の装飾だと捉える。モダニズムで失われた装飾を現代らしいカタチで取り戻そうとしているように見える。

だがこれが真実なのだろうか。


 このポンピドーセンターの建築の構成がテクノロジーを建築の外部に押し出そうと、排出しているように見ることはできないだろうか。


 テクノロジーと建築の出自はARTである。建築はテクノロジーを拒絶はできないがそれでもARTとともにある道を選ぶ、と。

極端な話をすれば日本の建築に関わる人間としてはこれをテクノロジーの拒絶と捉えるほうがしっくりくるはずだ。

それは赤瀬川原平の宇宙の缶詰のようだ。

建築空間その純粋な領域(内部空間)からハイテクを見せないように外に追い出すように努め外部に露出することで建築の芸術性を内側に保持しようとする。

テクノロジーを建物から切り離すことは難しい。故に建物はファッションのようにテクノロジーを纏うことで建築という芸術性を内側に保護するのである。と。


 しかしハイテク建築のようにテクノロジーを外部へと排出しようとする表現はその後の建築の歴史で現れることはほとんどなかったと言っていい。

そのことで理解するのは今の建築はテクノロジーを建物の中心に配置し隠蔽しようとしているということだ。

 アートと決別したテクノロジーを建物に内包し表出を避け、着飾ることでARTをなんとか保っているように見せている。そこに価値を見出そうと努めている。

ARTとは程遠い建物が都市に溢れている理由はここにある。そのような状態にあるものを建築と呼ぶための歴史的な背景はほとんどない。そしてそれらの空間的価値が向上することは当然ない。それは消費されるための空間なのだ。

 現在、都市には建築から切り離されたテクノロジーとしての建物が乱立するようになった。それを建築と建物の分断の時代としてのハイテク建築であると捉えることができる。

ここにテクノロジーとアート、建物と建築の断面が現れる。

そしてここで必然的に強調されるのは建物のファッション化である。


 今では建築家の役割はファサードに表出する衣装デザインの傾向にあり、建築のART性は失われ、同時にアート性が現出する。つまりそれは建築というものとは異なる建物のデザインの話になる。もしこれを語るのであればそれは建築ではなく、architecuteもしくは造家の文脈の方が理解が早いのかもしれない。

もしくは村上隆のスーパーフラットの概念のもと、都合の言いようそれを理解し言い訳的に建築と自称することができるのだろう。

ここにある建築の歴史はモダニズム建築からの反動のようだ。しかしその表現は建物の話だけでなくARTの歴史に関わるように表出する。私たちが利用する建築のコンテクストとは周辺環境におけるそれだけではなく、ARTの歴史によるものでもなければならないのである。

それはX軸とY軸からなる立体的なコンテクストだ。

そこに建築=kenchikuが表出するだろうと私は考えている。


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