撮影可能なものだけですけど一応。
足を使ったフットペインティング。
60年ほど前からの作品、映像。
今も昔もやっていることはそう変わっていないな。
僕たちの歴史とはそういったものなのでしょうね、きっと。何か大きなものを背負わされてる気になる。僕はそんなに背負えるのかな。
大きな作品が展示空間に綺麗に整列してた。日本中から集められた白髪一雄という人物の作品。そこにはいろんな物語があって、、、なんてことを想像してしまいそうになるのだけど、実際一人の人間が一生をかけて作り上げてきた作品の重みを感じる展示だった。
とてもありきたりな感想になってしまって申し訳ないのだけど、久しぶりにそんなことを感じてしまった。それほどに激しく、ドロドロしていて、ある意味戦っていた。
具体の「人の真似をするな。今までにないものをつくれ」っとウィキペディアから拾ってきてみてもあまりピンとこず、言葉がしっくりこない。作品を目の前にするとどうしても言葉は弱い。制作の映像はふざけているのか、それとも本気なのかわからない。でもここにある絵は本気で本物の絵だとそう思いました。
パフォーマンスとしての絵画。
インスタレーションやハプニング。色々なことが先駆的に起こったこの時代。
人とは異なることを、過激である。
僕は作品たちを鑑賞しながらたくさんのことを想像した。この絵画の帰る場所はどこなのかと。結論からいうと美術館以外ありえない。そう思ってしまった。僕たちの日常にもセレブの日常にも(これは想像だけど)これらの絵は強すぎる。美術館という場所がぴったりの絵画。
食事するのも、音楽を聞くのも、、、僕たちの生活に絵が必要な場合、、、なんてことを画家はきっと考えないのだろう。描きたいものを描くし、だれも見たことないものを作ろうとする。それは絵と対峙した瞬間から画家とはそういう人たちのことをいうのだと思う。きっとね純粋な絵の始まりというのはそういうものなのでしょう。ある意味原始的。本能のまま。
美術館とは、、、墓場のような場所でもあるのだなとそう思った。これは作品や美術館を批判する時に使われる場合が多いのだけどこれ以外に言葉が見当たらない。批判ではなく、自分たちの日常が様々な付属品が主役になってしまっていて、、、するとどうしても絵の居場所がなくなっていく。これらの絵画を日常に持ち出そうとするならばきっと僕たちは聞く音楽を根本から変えなくてはいけない。テレビのデザインも冷蔵庫のデザインもベッドのデザインも。でもきっとどんなデザインにしてもこの絵に排除される、そんな気がしている。だから何もない美術館しか居場所がなくなってしまう。音楽をかけてはいけない場所。食事も許されない。カメラのシャッターでさえ無音にしなくてはいけない。照明も気づかれないように高い位置に設置しなくてはいけない。まさにそんな絵。
こうやってみるとトムサックスの作品は私たちの日常に生きていたとそう思う。
比べるべきところ、それは僕の場合建築になる。それは居場所ということになるのかもしれないし、在りかとか存在方法とかそんな場の話になる。すると強度や場への適応能力とか色々表現というものとは異なることにも目がいきがちになる。そして白髪一雄の作品が繊細で弱い構造であることを知るのに時間はかからない。トムサックスはもっと図々しく、図太く生きる。
これはもはや芸術でもデザインでもなく建築の話。
僕がするのは建築の話。芸術的に価値があるとか、デザインとしてどうなのか?ということは二の次、三の次。僕が生きるのは建築の世界なので、純粋に芸術としての評価はできない。最近よく聞く言葉がある、精神と時の部屋。なんかそんな部屋なら白髪一雄の絵が1枚くらいあってもいいのかななんて。ふざけるのは辞めます。でもそんな部屋なんです。考えたり、修行したり、日常の中で過ぎるスピードにはきっとついて行けないし、ついていこうともしない。いい意味ですごくマイペースな作品。だから少しこの場にいると不安になるし心が騒つく。それを一つの支配力と言えるのだけど、一歩美術館から外に出れば日常を生き抜いてきた雑草のようなデザインたちには敵わないでしょう。とそんなことを思った。
なんだか不思議な経験をした。消化し切れていない。それが美術館。日常は日常でしかない。僕はどこに行きたいのかな。僕は何がしたいのかな。建築を考えてきたけど僕の建築の強度や適応能力ってなんだろな。繊細さや図々しさを持っているだろうか。なんだか今日はざわざわしてる。
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