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執筆者の写真Gaku Sakura

日本建築の新たな夜明け。

更新日:2021年12月15日

大きなテーマになりそうな予感。

建築を軽くするとか内と外を曖昧にするとか、震災前に延々と語られていたように思う日本建築のコンセプト。今の日本建築のコンセプトとは??ただ似たようなものを作り続けるそれは建築ではないのでは?ただ真新しいコンセプトは必要ないのかも。

内と外、それを建築と自然と設定していた建築だけど建築とストリートと設定してみると今僕は種蒔をしている段階だと思う。


BAD HOP。ストリートの歴史を辿ればここから一人ずつの活動になっていくことを想像するのは容易い。ただこのまま活動がチームとしてあり続けるのであればそれはとてもかっこいいこと。それはそれぞれの意思とは別のところにある信念のようなものを貫く方法。

今では大きな組織は必要ない。小回りがきかない。融通がきかない。そして最も言いたいのは大きな建築が必要ないということ。

スタジアムという形式の建築やビルディングタイプの建築はこれから減っていく。それは少し希望もあるのだけど不透明な形式で選ばれる建築は何か歪んだ歴史を見ているようで萎える。例えば新国立とか。

そのような塊として建築を眺めてしまう自分がいる。しかし、これらの建築を無駄だったと言いたいわけではなくどこか歴史の産物として見ている自分がいるということ。つまりもう昔の建築のように見える。もっと言えば遺跡。過去の物。


新しく芽をだした建築もある。ただどれもまだか弱い。新たな歴史としての建築にはなれていない。スキーマも中山英之も谷尻誠も。今建築雑誌の常連と言える建築家たちだが新しさというよりは見せ方がうまい。そんなところ。それで成り立つのが今の建築雑誌であり活気のようなものはない。お洒落なファッション雑誌。コロナの影響もあって建築同士の距離感も難しい問題として見れるようにもなってきてこれからの建築のソーシャルディスタンスとは一体なんなのか?見極めたいところ。


そんな状況の中バイク界はコロナバブルらしい。


ninja kawasaki.

BAD HOPの歌詞にちなんで。


東日本大震災から流動的な建築を求めてきた。それは一つの場所には留まらないでいい建築方法論。リキッドアーキテクチャ。構成するものは開発中。

バイクとはそういった時に強く現れる存在なのかもしれない。この存在を無視することはできない。バイクと建築と災害。きっと何かの発見がある。映画のなかでも何かに逃げるときには結構バイク。そういう意味がある。

もし熊本に帰ることになったらここから始める。

ハーレーかトライアンフ。アメリカかイギリスか。

日本ならやはりninjaか、、、ボバースタイルにしたいが。

では僕の建築とはどこに、、、

いつでもそこに、それが僕の建築の目標。それは場所ではない。常に人とともにあるべきものとして。



上書きするときそこには僕の見てきたストリートカルチャーが溶け込む。新しい建築の内と外の関係。それは内側と外側を縦横無尽に動き回る。移動する。そしてストリートを建築に定着させる方法の模索を続ける。壁を上書きするためにはキャンバスを使う。スニーカーを上書きする時にはワッペンを使う。

方法と構造はなるべく矛盾を無くすのが仕事。アートの仕事をするつもりもデザインの仕事をしているつもりもない。これはまさしく僕の建築活動。建築を切り離すつもりでいたがどこまでも建築はついてきてくれる。そんな気がしている。不思議な感覚。


建築とは全体のことではなくある部分のことだということが日本建築と世界の建築の違い。それは都市を見ればわかる。建築が部分であるということはそれはより細分化していくということ。統合ということとは逆のむきに走る。ネット環境とは逆のむきに走る。皆が集う場所ではなく、皆が関わり距離をとる。距離感に建築の問題が潜んでいる。


日本のストリートダンスがプロになるということで応援したい。プロになることはいいこと。企業の広告でもなんにでもなればよい。隠すことでも恥じることでもない。ストリートのネクストステップ。ただそれがうまくいくのは個人でありチームではない。そこが残酷なところ。結局排除するし、厳しい選択をすることになる。それが企業との関わり。それを排除したプロ活動ならばよかったがそんな建築は今のところ不可能なわけで、運営は四面楚歌。歯痒くてしょうがない。スポンサーというオーソドックスな仕組み。ストリートカルチャーの永遠の課題。スケボーもBMXもダンスもアートも。広告として利用され建築化するヒップホップ。生きるための方法だった。今はサクセスするための方法になっている。寂しいか?寂しくはない。ただ大衆にいいとこだけ取られていくようでなんか違うなと思うだけ。それがPOPか。歴史や意味は関係ない。だから空間として自分のストリートカルチャーを建築しようとしているだけ。それは今の環境と合っているしある意味メインストリームからは外れる黒いストリートである。それが日本建築のメインストリームであっただけの話。とても不思議な話。

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