NANZUKA UNDERGROUNDへ。
去年の末からギャラリー巡りを再開しました。これからも少しずつではありますが建築的にアートを語り尽くそうと思います。なかなか思うように行動することもできませんができる範囲で建築の可能性を探っていきたいと思っております。
先日指輪が完成しました。ある女性のために制作したものだったのですが大変喜んでいただけたようでほっとしております。指輪の歴史のなかで私にできることは何か、建築とどう接触することができるか、そんなことを問い続けました。カタチにこだわりつつ、私の建築の実践としてもブレることのないような制作。なかなか勇気のいる挑戦でした。
建築という概念はどうしても建物の話に納まります。それは仕方のないことです。そういう建築教育がありますし、それが一つの大きな歴史になっています。しかし本来の建築とは人を守ることにあります。それは身体的な話だけではありません。人の記憶や精神のことも守らなければなりません。そしてアートを守らなければなりませんし、デザインを守らなければなりません。私たちの全てを守らなければなりません。
つまりは"全ては建築である"と言わなければいけなくなるのですが、、、
人を建築すること、果たしてこれは実現可能なことなのでしょうか。なかなか難しい話になってしまいそうですが全ては建築に通ずるそういう歴史の上に私という人間は間違いなく立っています。そして建築のための建築を目指すことが私の命題です。
指輪の素材を見てください。指輪の造形を見てください。カタチとして未来に残るものを。限りなく永遠に残るそんな建築を目指す必要が私にはあります。人間に壊される建物を作ることを拒絶しなくてはなりません。それを建築の自立と呼べばよいのでしょうか。人の気持ちで簡単に壊されてしまうそのような状態に建築を置くことを望みません。建築の歴史の大きな一歩としてこれだけは譲れないなと思うのです。
ダニエル・アーシャム × ポケモン
大きなピカチュウの化石とでもいうべきか、、、幼きころの記憶が蘇る。赤、青、緑のカセット。ドットの白黒ゲーム。151匹。ポケモン言えるかな?ゲームを公園ですることが当たり前になっていた。ブランコをするわけでもシーソーをするわけでもなく。ゲームボーイをするのが公園での遊びだった。裏技ですぐにレベルを上げることができる不思議なゲーム。モンスターを強くすることが目的ではないデーム。通信しなければ151匹集めることができないゲーム。コレクションをゲームに取り込んだ。コレクターがゲームのなかにコレクションする。そんなゲーム。
私の記憶のポケモンはこんなものである。
しかし、ここにあるポケモンは若干高尚なものになっているし、実際に高価である。子供が喜ぶような類のものではなくなっている。大人のポケモンとの戯れのようでもあるがそれで片付けられるものかと言えばきっとそうではないのだろう。そうであると信じたい。小さいころの記憶が掘り起こされていくような気分になる展示。そこに遺跡だとはいえないホワイトキューブと商品化されたアートたち。いや、ホワイトキューブさえ過去の空間だと理解すれば良いのだろうか。あらゆる場面で文化と文化が衝突する。まとまりに欠ける展示であることは間違いない。しかし全ては一つのことで解決することになる。これは売るために置かれている、と。。。
展示という言葉が適切だとは言い難い。小さいころの記憶が蘇る。トイザラスに無限に並べれたポケモンのぬいぐるみ、ポケモンカード、ゲームセンターのUFOキャッチャーに閉じ込められたポケモンたちのそれに近い。
ギャラリーという場の解体
ギャラリーとは一体なんなのだろうか。もちろんアートを販売する場所である。がNANZUKAの立ち位置は今までのアートギャラリーの立ち位置とは若干異なるようでもある。何が違うかというとアートをアートとして解体しようと試みている点ではないだろうか。つまりかなり割り切ってアートを売る。それがお家のインテリアになろうと、子供のおもちゃになろうと関係ない。もっと言い方を変えるとここは期間限定のポップアップストアのようでもある。作品の展示の方法もギャラリーや美術館のような展示ではなく雑貨屋さんのそれと似ている。つまり作品一つ一つが完全に独立したものとして立ち上がり、場の構成は場を作るために行われるのではなく商品を見せるために行われる。
しかし、この展示はこのギャラリーだけで行われるものではなく、全部で5箇所同時多発的に展示される。この同時多発的展示はトムサックスの時にも現れた。今の時代の展示の王道のようにもなってきた。それはやはりギャラリーという場の解体を目指す流れであると理解する。ホワイトキューブの真実が高尚さを目指すものであるとするならば私たちの芸術は一旦はそこを目指す。しかし、その目指した先にある場が保存保管をするためだけの墓場ならばそこに未来はないと考えるのは必然だろう。しかし、場を都市に拡張し流動的な建築を構築しギャラリーの意味が中間地点になると私たちのアートはアートを超える。そういう展示としての同時多発性は大きなインパクトとともにイベント化する。
それはアートをアートで終わらせるのはもったいないというストリートカルチャーのそれと似ている。資本の波に飲み込まれることを楽しむようでもあるし、あらゆることに正面からぶつかっていく怖いもの知らずの勢いのようなものがある。あらゆる障害を乗りこなすスケートボーダーのように、建物のガラスを前にダンスを踊る若者のように、場を生み出す方法をアートに見出す。
それをアートを軽く扱う行為と受け取られるのだろうか。。。
作品の強度
アートは果たして本当に高尚なものなのだろうか。ものづくりには”ヒエラルキー”があるとする。いや実際にあるというのが事実なのだろうが。ギャラリーや美術館という場がそれを顕著に表現する。それはアーティストたちが望んだ結果なのだろうか。それともこのアートゲームを組み立てようとするその他のプレーヤーたちの欲望なのだろうか。
価値を作り上げることがアートであるように勘違いされても仕方ない。その場に立ち入ることで自分が高尚な人間になったと勘違いをする人もいるだろう。
しかし私がここで感じたアートはリアルな私たちのアートである。
原宿という場はストリートブランドが立ち並ぶ。ベアブリックが流行の目印となる。電柱や壁にはグラフィティーが描かれ私たちは何事もなかったようにそれを通り過ぎていく。アートをアートとしてみる必要はどこにもない、高尚さなんて解体していく、そんな雰囲気がこの場にはある。それは私たちの生活のリアルになる。
アートのアートとしての役割。それは果てしなく建築であること。建築の拡張を生み出すことはアートを用いて可能になる。そして流動化する。
それはまちおこしのそれとは違う。なんでもいいアートの強度とは異なる。場の文脈とアートの文脈が適切に連動するカルチャーの発見に伴う事象でなければならない。そのような建築を発見する喜びがこの場にはある。
建築の強度をアートで測ることが可能なのかもしれない。アートの強度を建築で測ることが可能かもしれない。そんなことを思う。
今私たちのアートはこれまでのそれとは違うものになりつつあるし、建築もまた然りである。私たちが場を意識した時そこにアートと建築の複合体としてのコンプレックスが生まれる。それは最新の建築のあり方なのかもしれない。
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