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執筆者の写真Gaku Sakura

正直な気持ち。

更新日:2020年1月12日

今の仕事に満足している。ただもう少し大胆に大きく動きたいというのが正直な気持ち。自分の活動も細く続けてこれた。好きではなかったらここまで続けることはできなかったと思う。父の実家に余った土地がある。いつかここを公園にしたいと考えている。僕が今考えているのは植物の為の建築を作ること。言葉だとなかなか説明が難しいけど、植物のための建築、そこに自分たちの居場所ができる。そんな今までの建築の方法とは違う方法を試みたいと思っている。これはまだ自分の頭で考えていること。いつどこで実行できるかわからない。こんな妄想をひたすらする休日。幸せだ。だから僕はもっと動かなくちゃいけない。


もう一つ正直な話をする。

絵を描くことは嫌いだ。

絵を観るのは好きだけど。

自分の絵だと思えたことが一度もない。自分で描いたとは全然思えない。他人の描いた絵のように思える。不思議な感覚。

人の表情もない。手先も足もない。人っぽく見えるだけ。ファッションのシルエット、しわ、僕のサイン、それからデザインした電球があるだけ。平凡なイラスト。


僕が絵を描く、それは建築のために描く。人のために描くとかそんなことはしない。だから絵を描く時は飾る建築のイメージがわかるときだけ。建築に絵を飾るってことは壁の上になる。それは窓を開けるということと似ているように思われる。絵画は窓になる。僕はそうは思わない。壁の上にある絵はどうあるべきか。イメージできるのは広告。

花や本は美しい。それを複製するための絵は描かない。実用的に現実的にシンプルに考える。花が綺麗だとする。その美しさを保ちたい、その答えが絵を描こうとはならない。僕の場合それは造花になる。しかし造花は香りのない美しいプラスチック。つまり絵に描いた花は花っぽいものではあるが花ではないし造花もそう。であればそこに描かれているのは花のようなものということになる。


駅にいる。行き交う人々の姿はファッション。顔や足、手が生えている。なんて不思議なことは言いたくない。ただ建築には人がいるもの。人の動きはすごく綺麗。痩せていたり太ったりしている。その姿はとても綺麗。建築と人はすごく綺麗。そのままが一番。

それはもう建築が生まれた時から成立している一つの形。そこはもう触らない。

でもファッションは違う。顔だちでファッションは変わる。その時の気分で変わる。変わることがいいことだと言われる世の中だけど、ファッションは変わらないことが魅力になるんじゃないか、そんなことを思う。人と建築とファッション。相性は完璧だ。ファッションから省ける場所を省きたい。それがこの絵。だから納得しない。手触りもない、温もりもないこの絵がきらいだ。やはり何かが抜け落ちる。

なにかを描こうと思えばないかが抜け落ちる。何か代償を支払わなければならない。代償と絵。

お金のため、生活のため、人のため、絵にも色々ある。

僕は建築のため。


僕にとってダンスは重要な建築とのコミュニケーションツール。不思議な話だけど。建築と会話しようと思うときはダンスする。そのダンスをする時にファッションは重要になる。そこでの動きは一つの美。それは絵で表現できるものではない。僕にダンスがなければ、きっとこの絵は生まれなかっただろう。ダンスという表現があるから絵としてのファッションのあり方はこれでいいと。ダンスと絵、そこにあるファッションや人の姿は建築の中で新たな意味を持つ。そして建築は新たな建築を迎え入れる。新しい建築がここに生まれればいいな。




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