熊本の建築が日本建築の一つの起点になっていることは間違いないと思います。しかしその反面、いいプロジェクトが少ないということも同時に話さなくてはなりません。
熊本の建築には政治が強くでます。それはとても堅苦しく、重いものです。それをも超えるような軽やかさや、しなやかさ、美しさはなかなか現れてきません。建築にこれらのモノを求める必要もないですがあまりにもつまらない、お決まりのというのは物語的にどうなのでしょうか。
私は前回の内容で熊本城に着いて語りましたが、それはこの建築との延長線上にあるものとしての面白さです。
この作品には興奮しました。詳細に美しく語る造形は優雅であり滑稽なヒエラルキーを持っています。それを全て美しく奏でようとしているように見えます。それは楽器のように、音楽のように、です。
熊本城はどうでしょうか。震災という経験を乗り越えようとするエネルギーを感じます。それはサグラダファミリアとは異なります。完成を迎えた現実としての今を示すのが熊本城です。
何年も何年も完成を夢み続ける希望のサグラダファミリアとは異なります。
しかし、どちらも歴史を紡ぎます。繋ぐ意思を感じます。それは決して無駄ではありません。建築はこうでなければなりません。
建築は総合的なものです。それを建物の話しとすり替えてしまうと実は現代建築の大半は成り立たなくなります。
これは一つの例に過ぎませんが、正直何をデザインしているのか分からなくなります。柱の配置を考えることが建築なのか。植物やテーブルを設置することが建築なのか。それとも全てを包み隠そうとするのが建築なのか。
ここでは建物の存在は額縁程度の機能しか保持しているようには見えません。それは建築と建物との違いを知る機会を与えます。
図面には植物やテーブルが敷き詰められ、それは漫画の世界を体現するかのようです。それはまるで少女漫画の世界です。
しかし、この一連の流れ、歴史、レイヤーこそが建築だと思考するとこれは面白い建築だと考えられるようになるのかもしれません。正直な話しをすると建物的には誰でも考えられるような単純なものです。
紹介した上の二つとは性質が大きく異なっていることがわかると思います。建築と建物は時に分けて捉えなくてはいけません。
話しを戻します。
単刀直入に言うと熊本という場所で起こる建築の話しは正直面白くありません。これは建物の話しではありません。
そこには皮肉もなく、展開もなく、です。しかし、熊本城の存在が今になって面白く感じられているのはこの熊本の建築の面白くなさ、からきていることも事実です。
つまり、展開のないしょうもないストーリーを震災という私達の望むべき展開でなかったもののおかげで、建築のすごさを示すことができているという……そこに有名な建築家が関わることもなくです。修復が有名建築家のアイディアを超える美しい建築となっています。今、日本で建築されているものの中でもナンバー1の建築であると断言できます。安藤忠雄より、隈研吾より、伊東豊雄よりです。
そこに関われる、接することのできる熊本の人々はいい建築を今見ることができています。それはとても幸せなことだと思います。
つまり建築は流動性を獲得しつつあるということです。
やっぱりいいです。
Comments