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執筆者の写真Gaku Sakura

現代建築作家7 建築の作家性


昨日は自分のダンスをSNSにのせた。

気分があんまりよくない。とっても疲れた。

それは普段発表している作品とは異なる形式で、自分の外形が作品になるからだと思う。良く見せようだとかっていう自分をさらけ出す作業は普段の制作と違って変なところに力が入る。自分が自分として生きることがこんなに大変だと思ったのは久しぶりだった。なにより自分自身の理想のイメージが崩れていく感じがした。自分の理想のイメージ・・・自分はとっても安っぽい男だな。駄目なところもダサい部分も全部自分自身でそれを表に出す仕事を選んだのに!本当の作家性(自分自身)に触れるってこんなに恥ずかしいとは。かっこつけるのも時には必要なんだけどね・・・

そんな自分の作家性。最近、どこの世界でも非作家性が問われています。

コラボしたりユニットをくんだり。それは音楽家でもデザイナーでも建築家でもよくあることなんだけど・・・ユニットの非作家性に未来があるのか?というとそれは難しいと思う。本来ユニットを組むって非作家性に向かうのではなくて強烈な個性がぶつかる場を作り上げること。ヴィトンとシュプリームの関係にならないと意味がない。手塚夫妻(建築ユニット)みたいに青と赤のシャツを着ないと。じゃないと世界ではやっぱり通用しない。ゼネコンでもアトリエ事務所でもやってることがそう対して変わらないなら安心して大きい事務所を選択する訳で。ユニクロをわざわざ高いお金を払ってオーダーする必要はないわけ。

で実際今の日本建築になにができるのか?

何度も言うけどオリンピック、ザハさんを止めにして隈研吾さんにした理由はなんなのか?

選択肢がいつの間にか隈研吾さんと伊東豊雄さんになってるって根本的におかしくない?

ヴィトンと仕事するの止めてユニクロ選んだ日本。

建築が機能の仕事をすればいいなんて建築学、学んだ記憶ないよ。

ここでユニクロを否定したいわけじゃないんだけど、ユニクロにはユニクロの使い方があるわけで。毎日自分が着るインナーがユニクロってことが日常的な訳です。

でもアウターはやっぱりユニクロを選ぶべきではない。特にデートのような大切な時には。オリンピックってデート、特別なわけ。すこしくらいラグジュアリーにおしゃれすべき。オリンピックの選手はヴィトンのバック。そこに服が全身ユニクロで高級鉄板焼きデートにきちゃダサいわけです。そもそも入店できないかもしれない。だからそこにはロレックスの時計が必要になるかもしれない。

ルブタンの靴が必要になるかもしれない。もっと若手のブランドで周りに差をつけたりという遊びや外しが必要かもしれない。それぐらい特別な建築のはずなんです。新国立競技場ってのは。

今のプランってTokyoの魅力なんにもないじゃん?外国からしたらTokyoのイメージってユニクロじゃないでしょ?漫画でしょ?アニメでしょ?ゴスロリでしょ?スシでしょ?他にもあるけどユニクロじゃないのは確かでしょ。建築家の仕事はこういう選択の積み重ねでしょ?

本当に大丈夫?ヴィトンとユニクロのコラボ見てみたいけど?なんならギャルソンもみたい。ヴェトモンもみたい。ラブチンスキーもシュプリームもステューシーもみたい。ヒューマンメイドもフラグメントもみたい。HYKEもみたい。もっと知らない世界もみてみたい。今の日本建築じゃ絶対だめでしょ?負ける建築が世界に勝とうとしてるように見える。それじゃ空回り。負けるなら徹底的に負けてみる。負けるが日本の武器にならない時もあるかもだよ?AKIRAの漫画でしょ?大爆発起こすんでしょ?日本の建築なくなっちゃうよ?

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