建築の話をするのももう何回目でしょうか。かなりたくさんの文章を書いてきたように思います。建築について考える日々は面白くもありますが険しいものです。
一冊の本との出会いが私の建築人生の始まりでした。
ろくに中学、高校にも行かず本屋に入り浸る、そんな毎日でした。
ゲーリーにアイゼンマンにコールハース、リベスキンド、ズントー。目に入る情報そのものがすごく新鮮でした。
私が建築を語る時、それは芸術との対話の中で生まれるものです。それ以外の物事に対しては建物と呼びます。建築と建物、何が違うか、一言でいうなら歴史が違うのでしょう。そして歴史は繰り返すといいますが、その繰り返される時間から飛び出すことができるかどうか、もしくはその可能性を秘めているかどうか、ということになるのでしょう。
モダニズムが生まれた時、水平垂直の構造体は建築の歴史に大きな変化をもたらしました。
モンドリアンやドナルドジャッドにはその建築性が見られます。それは関係性の原点のような構造を持っていました。モダニズムが生まれたことで私たちは距離感を測ることを学びました。そして人知のカタチを発明しました。
デコンの建築はアンビルドだと言われていましたが、実際に建築されるようになりました。ゲーリーは彫刻のような建物、建物のような彫刻を作りました。それはリチャードセラとの共闘ということができそうです。様々な素材を用いました。建物の建物らしさを少しずつ解体していきました。解体することが最新の建築に近づく方法であったのです。
ザハは美しい曲線を建築にもたらしました。それはアニッシュカプーアの作品のような視覚的な非日常への誘導のような効果を持っていたように思います。そしてモダニズムの建築に対抗したことを伝えなくてはいけません。それは現代アートの構造とリンクします。
つまりルールを更新する。新たなルールを提示する。歴史を塗り替える。
デコンは空間に対する効率や利便性というものの価値を問い直し始めるきっかけとなりました。そして建物が彫刻に近づくための方法でもありました。
これからを生きる私たちにとっての建築とは一体なんなのでしょうか。少し考えてみます。
コロナ。蔓延防止。
何度目の、、、
同じことを繰り返すことが好きではない私には正直苦痛です。少し進化があったり、対応、変更があればよいのですが状況はどんどん悪化してきている。それは危機感のなさや一種のどうでもよさのようなものが働いているように見えます。
実際に社会の動向と個々人の動向が一致していないのでなんとも言えませんが、私が望むのはいつも通りしっかりとちゃんと料理がしたいということです。ものを作る仕事。そこに制限がかかってしまう。それはものづくりに生きる人間にとっては苦痛でしかありません。社会がコロナに敏感に反応するなら社会に従うしかない。それが今の状況です。社会を無視する生き方もあるでしょう。でもそんな無責任な生き方を決して自由とは呼んではいけません。社会というものを信用していなかったり、必要としていない人も多くいるのでしょう。若い人なら特に。社会の構造は厚かましくできているのでなかなか解体するのは困難です。それでも社会の一員として生きるのであればやはり社会の目を気にする必要はどうしてもでてくるのでしょう。
建築を纏う
私が描くものに人はいません。人を描くことに興味はありません。私は纏うものに興味があります。私には女性の服は似合いません。当然と言えば当然なのですが、、、
女性の纏う服はとても美しいものだなと思います。それはなぜでしょうか。女性のシルエットのせいでしょうか。女性の繊細さでしょうか。女性らしさが建物に美しさそして繊細さをもたらしているなと思うことがあります。私はその答えが纏うものなのではないかとおもっていたりします。
先日ギャラリー巡りをしていました。女性と一緒だったのですがやはり女性の纏う服はホワイトキューブに美しさを与えているなと感じました。それは私が男だからでしょうか。多分、きっと違うのだと思います。答えはもっと別のところにあるはずです。
現代アートと同じような役割を、もしくはそこでは補うことができない何かを女性の纏う服は持っているのだなと思いました。
いつでもどこでも美しい建物には美しい服を纏った女性がいることに気がつきました。
装飾を排除した建物としてのモダニズム。この考え方はきっと誤りだったのだと思います。モダニズムは人の美しさを知るために与えられた空間だったのではないかと私は考えています。それはきっとスーパーマーケットでもショッピングモールでも同じような体験をすることになるのだと思います。
ポストモダニズムの建築についてはまた次回書くことにしましょう。
表情
人の表情を止める写真や絵画がとても苦手です。人の表情は決して止めるべきではないなと思います。人の繊細さを顔で見ようとすることが苦手です。私は人の繊細さを身振り手振りや音を使って知ることの方が得意です。人の表情を脱ぎっぱなしの靴下やシューズボックスに並べられた靴にはしたくありません。ハンガーにかけられたコートには決してしたくありません。
いつの間にか私は自身の顔をトイレットペーパーに置き換えるようになりました。トイレットペーパーは私の青春そのもの、と言ってしまうと変な話になりますが実際私の青春そのものなのです。手放すことができないほどに、です。
東日本や熊本の大震災。その時多くの人がトイレットペーパーを買い求めました。ドラッグストアからは品物がなくなってしまうほどに。そこに私たちの生を見ました。私たちの人には見られたくない生を見ました。しかしそれが恥ずかしいことではないことを私は中学生の時に知りました。女性はあまり悩むことがなかったと思いますが男子は大便器の部屋に入ることがどれだけ恥ずかしかったか。小便器と大便器に分けられたその空間にどれだけ悩んだことか。。。
トイレットペーパーは間違いなく私の青春でした。
そしてやはり表情は動かすべきだと建物と私の記録をしている間に感じるのです。
これからの建築のあり方について。
建築の歴史が止まってしまわないように。考えなければなりません。
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